布で出来た空が、また少しほつれていた。

 東の空の端、ドームの縫い目が走る場所に、指先ほどの裂け目が生じていた。糸子はそれを朝一番に見つけ、公爵に報告しようとして、やめた。公爵はまだ廃園の端に立って、昨日咲いた光の花の残滓を眺めていた。その後ろ姿が持つ静けさを、自分の言葉で乱したくなかった。

 昨日縫い合わせた記憶布の断片は、夜が明けても消えずに残っていた。花の形をした光は薄まったが、代わりに地面に染みのような温かみを残し、踏むたびに足の裏に柔らかい感触が伝わった。糸子は何度もその場所を往復した。意味もなく歩き回りながら、自分の針が生んだものを確かめるように。

 出発は遅れた。公爵が言い出さず、糸子も言い出さなかった。ただ二人は廃園の中を、互いに適切な距離を保ちながら歩いた。それは昨日よりも少しだけ縮まった距離だったが、互いにそれを口にしなかった。

 リィナは夜明け前に一人でどこかへ行っていた。「先行して道を調べてくる」とだけ書いた布切れを残して。糸子はその切れっ端を二つに折り、上着のポケットに入れた。

 ―――――

 縫界の南端、都市カルッタの商業区画の奥深く。

 布で覆われた天井の下、幾重にも重なった記憶布のカーテンが揺れる広間で、一人の男が椅子に座っていた。

 布商ガルデ。

 年齢は不明だった。顔の造作は整っているが、どこか作り物めいていた。瞳の色は布地の白に近く、感情を映さない。上等な衣をまとい、指に記憶布を束ねた指環を幾つも嵌めているが、それは装飾ではなかった。彼にとって記憶は、身につける資産に他ならなかった。

「報告を」

 声は低く、感情の起伏がなかった。

 向かいに立つ部下——黒い布地の制服を着た若い男——は、書類代わりの布片を広げながら答えた。

「はい。辺境廃縫野の第七区画、かつて『咲き継ぎの庭』と呼ばれた廃園について。現在も記憶布の残留が確認されております。採取可能な布量は試算でおよそ三十反。市場価格に換算すると——」

「三十反」

 ガルデの指が、肘掛けの上でゆっくりと動いた。

「ほつれかけているか」

「はい。縫い目の保持率は四割を切っております。このまま放置すれば、一年以内に自然崩壊するかと。しかし崩壊してからでは布の回収効率が——」

「崩壊させる前に剥がせばいい」

 部下は一瞬、口をつぐんだ。

「しかし第七区画には、まだ僅かながら……記憶の定着が認められます。現地調査によると、近年に縫合の痕跡が確認されており」

「誰が縫った」

「不明です。ただ、縫い方が特異で。古い布と新しい布が同時に扱われており、通常の縫人では再現が難しい技法だと」

 ガルデの指が止まった。

 広間に、わずかな沈黙が落ちた。布のカーテンが揺れ、天井の縫い目が軋む音が遠くに聞こえた。

「特異な縫い方」

 繰り返した声に、初めて何かの色が混じった。それが何の感情なのか、部下には判断できなかった。

「その者の身元を洗え。縫人登録があるか確認しろ」

「はい。ただ、先生——」

「ガルデ様、と呼べ」

 部下はすぐに頭を下げた。

「申し訳ありません。ガルデ様、廃園への消去隊の派遣については、いつ頃を……」

「七日後」

 ガルデは立ち上がった。布製の衣が静かに揺れた。

「七日後に消去隊を送れ。布は全量回収、地形は白紙に戻せ。縫い直しの痕跡も含めて、すべて剥ぎ取れ」

「……かしこまりました」

「それと」

 踵を返しかけたガルデが、振り返らずに言った。

「その特異な縫い方をした者が、まだ廃園にいるなら、連れてこい。いないなら——追え」

 部下は返事をした。しかしガルデはすでに歩き出していた。布のカーテンを割って奥へ進む背中が、一瞬だけ明るみに出た。そこで糸子がいたとしたら、気づいたかもしれない。ガルデの衣の裾に、ほんの小さな、ほつれがあることを。

 ―――――

 廃園に風が吹いた。

 東から来た風は、ドームの裂け目を通り抜けてきたのか、外の空気に似た匂いがした。糸子は立ち止まって、その匂いを吸い込んだ。どこかで覚えのある匂いだったが、それが何の記憶なのかは思い出せない。記憶を売り払ったせいなのか、それとも元から知らなかったのか、今の自分には判断する術がなかった。

 公爵が隣に立った。

「風向きが変わった」

 呟くような声だった。

「そうですね」と糸子は答えた。「なんか、急に」

「急に変わる風は、たいてい外から来る」

 外。それは縫界の内側ではない場所。ドームの外側、記憶布が存在しない虚無の領域。縫界の住人はそこを恐れた。記憶がない場所には、存在できないと信じていたから。

「外から、何か来るんですか」

「さあ」

 公爵の声は素っ気なかったが、視線は東に向いたままだった。その横顔に、糸子は昨日から何度も視線を向けていた。光の花が咲いたとき、確かに公爵は驚いていた。感情を持たないような皮肉屋の青年が、ちゃんと驚くということを、糸子は妙に大切なことのように感じていた。

 そのとき、廃園の入口の方から足音が聞こえた。

 リィナだった。だが、走っていた。飄々とした彼女が、息を乱しながら駆けてくることなど、これまでなかった。

「ちょっと、まずいかも」

 リィナは二人の前で立ち止まり、膝に手をついて息を整えた。上着の裾がほつれていた。どこかに引っかけたのだろう。

「カルッタの情報屋から聞いたんだけど」

 顔を上げたリィナの目に、珍しく真剣な光があった。

「ガルデが、ここを消去リストに入れた」

 言葉が、廃園の空気に溶けた。

 糸子は一拍遅れて、意味を理解した。消去。昨日自分が縫い合わせた布が。光の花が咲いた場所が。足の裏に温かみを残した地面が、すべて剥ぎ取られる。

「七日後に消去隊が来るって。布を全部回収して、地形ごと白紙にするって話」

「七日」

 公爵が静かに繰り返した。

「急ぎ過ぎだな」

「そうでしょ。でも本当の問題はそこじゃなくて」

 リィナは糸子を見た。まっすぐに、珍しいほど真剣に。

「消去隊に、縫人狩りが含まれてるって話。特異な縫い方をする者を捕まえてこいって、ガルデ直々の命令が出てるって」

 糸子の胸の中で、何かが細く鳴った。針が糸を引く、あの感触に似ていた。

「特異な縫い方、って」

「あなたのことでしょ、糸子」

 リィナの言葉は短かった。それだけで十分だった。

 糸子は自分の右手を見た。昨日、記憶布の断片を縫い合わせた手。何をしているのかわからないまま針を走らせたら、花が咲いた手。自分の縫い方が「特異」なのかどうか、糸子には判断できなかった。ただ、針が動きたがる方向に動かしただけだった。

「逃げますか」

 糸子が聞くと、公爵は首を振らなかった。

「逃げることはできる」と公爵は言った。「だが七日後、ここは消える」

 廃園が消える。積み重なった古い記憶布が、すべて剥ぎ取られる。縫界のどこかで誰かが憶えていた光景が、泣いた記憶が、笑った記憶が、名前も知らない誰かの一瞬が——商品として括られ、値札をつけられる。

 糸子の針が、ポケットの中で小さく震えた。

「七日、あるんですよね」

 糸子は顔を上げた。

「ガルデが来るまでの七日間で、できることってありますか」

 リィナが眉を上げた。公爵が糸子を見た。その目に、昨日の廃園の朝と同じ表情が浮かんでいた。糸子はまだ、それに名前をつけられなかった。

「ある」と公爵は言った。

 低い声だった。しかし確かな重みがあった。

「縫守のオリカを探す。この廃園に、まだ縫い直せる布があるなら——彼女が知っているはずだ」

 縫守のオリカ。その名前を聞いたのは初めてだったが、公爵の声に滲んだ何かが、糸子に問い返すことを躊躇わせた。

 風がまた吹いた。今度は廃園の奥から、古い記憶の匂いを連れて。

 糸子は針を握り直した。まだ何も縫えていない。でも、縫わなければならないものが、確かにそこにあった。

廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女

9

ガルデの影が迫る

緒方 縹

2026-05-22

前の話
第9話 ガルデの影が迫る - 廃園の継ぎ接ぎ公爵と、名前を売った少女 | 福神漬出版