霧は、最初から待っていたような顔をしていた。

 バスが山道を折れた瞬間、窓の外の景色は完全に白く塗り潰された。乗客は透を含めて三人だけだった。前の席には、麦わら帽子を膝に乗せたまま眠り続ける老人。後部座席には、分厚いコートにくるまった若い女性が、窓に額を押しつけて外の何かを見ようとしていた。見えるはずもないのに。

 瀬川透は、シートの背もたれに頭をあずけ、目を閉じた。

 今年で二十三歳になる。それだけは確かだと思う。

 だが最近、「確かなこと」の数が減り続けていた。昨日の朝に飲んだ珈琲の苦さを、本当に自分が味わったのかどうか、ときどき分からなくなる。先週、階段を踏み外して膝を打ったはずなのに、その痛みの記憶が薄い一方、会ったこともない誰かが幼い日に川で溺れかけた恐怖の感触だけが、いつまでも鮮やかに胸の奥に居座っている。

 他人の記憶が、流れ込んでくる。

 これが透の「病」だった。医学的な名称は、どこにもなかった。

 バスが停まった。終点です、という運転手のくぐもった声が車内に広がり、透は目を開けた。

 老人が先に立ち上がった。麦わら帽子を頭に乗せ、足取りは思いのほか確かだった。老人がバスの扉を降り、透も続いた。後ろから女性が降りてくる気配はなかった。振り返ると、彼女はまだ窓の外を眺めていた。どこか遠い目をしていた。もしかしたらあの人は、最初からここで降りるつもりなどなかったのかもしれない、と透は根拠もなく思った。

 バス停は、コンクリートの柱に屋根を乗せただけの粗末なものだった。時刻表は黄ばみ、端が剥がれかけていた。霧の中に松の黒い影だけが浮かんでいた。

 老人が、ゆっくりと透の方を向いた。

 「霧積館に行かれるのかね」

 皺深い顔に、穏やかな目が沈んでいた。透は小さく頷いた。

 「さよか」と老人は言った。それだけだった。それから麦わら帽子の鍔に手をやって、霧の中へ歩いていった。

 透が次の一歩を踏み出そうとした、その瞬間だった。

 頭の中に、何かが溢れた。

 ——麦畑の黄金色が、光の加減で少し緑に見える朝。女の子が笑いながら走っている。名前を呼んでいる。その名前が何なのか、音は聞こえるのに言葉にならない。女の子の顔が振り返る。目が合う。これは幸福だ、と透は思った。思った——いや、誰かが思った。その感触がまるで自分のもののように温かく、そして慌てるように薄れていった。

 透は、砂利の上に片膝をついていた。

 いつ膝をついたのか分からなかった。手のひらに小石の感触があった。それだけが、今ここに自分がいるという証拠だった。

 「……また、か」

 呟いた声は霧に吸われた。老人の記憶だ、と透は思った。あの老人が長い人生の中で何度も思い出してきた、黄金色の朝の記憶。それが、すれ違いざまに透の中へ流れ込んできた。よくあることだった。人混みではもっとひどい。一度、渋谷の交差点を渡ろうとして、三十メートルも歩いたところで気がついたことがある。その間の十数歩分の記憶は、全部他人の何かに塗り替えられていた。

 透はゆっくりと立ち上がり、ナップサックの肩紐を握り直した。

 道は、霧の奥へと続いていた。

 舗装が途切れると、足元は湿った土になった。松と白樺が交互に現れ、枝と枝の間を霧が縫うように漂っていた。標高のせいか、空気は薄く冷たかった。七月だというのに、吐く息が白くなりそうだった。

 透は紹介状を鞄の内ポケットに入れている。宛先は「霧積館院長・碓氷玄先生」とある。透の主治医が書いたものだった。主治医は診察室の奥の椅子に深く腰かけ、透の「症状」をしばらく黙って聞いてから、こう言った。「あそこに行きなさい。同じような人たちが、いる」。それだけだった。説明も、慰めも、警告も、何もなかった。ただ一枚の封書を差し出しただけ。透はその簡潔さを、かえって信頼した。

 山道を三十分ほど歩いた頃、霧の色が変わった気がした。

 同じ白なのに、密度が違う。光の透け方が変わった。木々の間に、何か大きなものがある、という予感が足裏から伝わってきた。

 透は足を止めた。

 霧の中に、建物の輪郭が浮かんでいた。

 石造りの門柱が、左右に立っていた。門扉は半分開いていて、錆が浮いた鉄の格子越しに、砂利を敷いた広い前庭が見えた。庭の奥に、建物があった。三階建て、あるいは四階建てか。急勾配の切妻屋根の上に、煙突が二本突き出していた。窓の数が多く、そのどれにも鎧戸が下ろされていた。ただ一つを除いて。三階の、端から二番目の窓だけが開いていた。白いカーテンが、霧の中で静かに揺れていた。

 霧積館。

 透の喉の奥で、その名前が小さく鳴った。

 立て看板が門柱に沿って立てかけられていた。「私立療養院・霧積館」と黒いペンキで書かれた文字は、雨に滲んで所々が滲んでいたが、充分に読み取れた。その下に、小さな文字でこう添えられていた。「——寄る辺なき者の、還る場所として」。

 透はその言葉を目で追いながら、自分がここに来た理由を改めて考えた。

 还る場所、か。

 自分には、还るべき場所があるのだろうか。幼い頃から透は「余分なもの」を抱えて生きてきた。電車で隣に座った人の痛み、商店街で肩がぶつかった見知らぬ男性の怒り、通り過ぎた子供の無邪気な喜び——それら全部が、自分の中に少しずつ堆積していった。二十年以上生きてきた中で、どこまでが自分の経験で、どこからが他人の記憶なのか、今の透には分からない。分からなくなっていた。

 三階の窓のカーテンが、また揺れた。

 誰かが見ている、と透は思った。確信に近い感覚だった。窓は逆光で暗く、人の姿は見えない。それでも視線の重さが、霧を越えてここまで届いてくるような気がした。温度のない、静かな視線。測られている、という感触。

 透は息を一つ吐いた。

 門をくぐった。砂利が足の下で鳴いた。その音だけが、しばらく霧の中に響いていた。

 玄関の扉は、透が手をかける前に内側から開いた。

 老人が立っていた。白衣を羽織り、細い首に聴診器をかけ、丸眼鏡の奥の目は柔らかく細められていた。霜の降りた白髪が、霧の湿気を含んでわずかに乱れていた。

 「瀬川透くん、だね」

 声は静かで、低かった。

 「よく来た。待っていたよ」

 碓氷玄は、そう言って透を中へ招き入れた。

 暖かな空気が、霧の冷たさを押し退けるように透の全身を包んだ。石造りの玄関ホールは薄暗く、古い木の匂いがした。廊下の奥から、かすかに人の気配がした。笑い声、ではなかった。息をひそめているような、静けさだった。

 透が靴を脱いでいると、廊下の角に誰かが立っているのに気づいた。

 女性だった。年の頃は透と同じか、少し上か。薄い色の長袖を着て、廊下の壁に背中をあずけ、腕を組んでいた。表情がなかった。驚いた様子もなく、歓迎の色もなく、ただそこにいた。透と目が合っても、視線は動かなかった。

 そして彼女は、透の目をまっすぐに見たまま、一言だけ言った。

 「また、増えた」

 独り言のような声だった。碓氷には聞こえていないようだった。

 透は何も答えられなかった。「また」という言葉の意味が、分からなかったから。

 女性はそのまま踵を返し、廊下の奥へ消えていった。薄いカーディガンの裾が、曲がり角で揺れて、それきり見えなくなった。

 碓氷が、穏やかに笑いながら言った。

 「気にしないで。彼女は——ああいう子なんだ」

 ああいう子。その言葉が、どこかひっかかった。

 透は靴を揃え、ホールに上がった。窓の外では霧が建物をゆっくりと飲み込んでいた。もう山道は見えなかった。バス停も、老人の背中も、何もかもが白の向こうに溶けていた。

 透は振り返らなかった。

 ここから先に、何かがある——その確信だけを持って、霧積館の内側へ踏み込んでいった。

霧の中の十四番目の証人

1

霧積館への道

朧月 汐音

2026-05-14

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第1話 霧積館への道 - 霧の中の十四番目の証人 | 福神漬出版