霧は午後になっても晴れなかった。

 窓の外は白く塗り潰されたまま、時間そのものが止まったような静けさの中で、透は廊下の石壁に背を預けていた。蛍の告白が、まだ耳の奥に残響している。*三島との記憶が消えている*——その言葉は、意図的な沈黙に似た重さで透の胸腔に沈殿し続けていた。

 霞が現れたのは、透がそこに立ったまま三十分ほど経った頃だった。

 音もなく、気配もなく、気がつけば彼女は透の隣に立っていた。灰色のカーディガンの裾が廊下の冷えた空気の中でわずかに揺れていた。

「聞いてしまったのね」

 問いかけではなかった。確認でもなかった。ただ、事実を口の中で確かめるように、霞は静かに言った。

「少しだけ」と透は答えた。「蛍が、記憶をなくしていると。三島さんに関わる記憶を」

「そう」

 霞は窓の方へ顔を向けた。白い霧の中に何かを見ているようにも、何も見ていないようにも見えた。

「透、あなたに話しておくべきことがある」

 その言葉の重さに、透は思わず息を止めた。霞がこれほど直截に何かを申し出るのは珍しかった。いつも彼女は、話の周縁を指でなぞるようにして物事を伝えてくる。それが今夜は違った。

「部屋に来て」

 霞の部屋は館の東棟の突き当たり、いちばん霧に近い場所にある。案内されるまま透が足を踏み入れると、そこは質素だった。本棚に並んだ書籍の背表紙はすべて色褪せ、机の上には薄い紙束が幾重にも重なっていた。長い年月をここで過ごしてきた者の部屋の匂いがした。

 霞は椅子に腰を下ろし、透に向かい合わせの椅子を勧めた。しばらく沈黙が続いた。霧の向こうから、どこかで風が鳴く音が聞こえた。

「霧積館の本当の目的を、あなたはどこまで知っている?」

「療養院だと聞いています。記憶能力者たちが安全に暮らすための場所だと」

「それは表向きのこと」

 霞の声に感情はなかった。ただ、均された平原のような静けさがあった。

「碓氷先生はここで研究をしている。ずっと。この館が建った最初の日から」

「研究」

「記憶の連鎖移植、という言い方を先生はしていた」

 透はその語を口の中で繰り返した。*連鎖移植*。自分の能力——他者の記憶を無意識に吸収してしまうこと——と、霞の能力——記憶を意図的に他者へ渡すこと——が組み合わさったとき、何が起きるのかを想像するのに時間はかからなかった。

「記憶を、人から人へ渡していく、ということですか」

「それだけではない」と霞は言った。「渡した記憶が、受け取った人間の中でどのように変質するか。元の持ち主の記憶と、受け取った人間の経験が混ざり合うとき、人は何を感じ、どう変わるか。その過程を先生は記録したかった」

 透の胃の奥が、冷えた石を飲み込んだように重くなった。

「私は長年、その実験に協力してきた。記憶を渡す役として」

「強制されていたんですか」

 霞は一瞬、瞳を細めた。

「違う。強制ではなかった」

「では——」

「なぜ協力したのかは、言えない」

 その言葉は、壁にぶつかった音のように部屋の中に広がって消えた。霞の表情は変わらなかった。しかし透には、その静けさが何かを必死に押さえ込んでいるものに見えた。感情ではない。それよりも深い、もっと根源的な何かを。

「実験の対象者は、あなたたちだけだったんですか」と透は聞いた。

「いいえ」

 霞は立ち上がり、本棚の一番下の段から薄い冊子を取り出した。それを透に差し出す。透が手に取ると、紙は古く、指先にやわらかく貼り付くようだった。表紙には手書きの文字で*記録・第一期被験者群*と書かれていた。

「三島の名前も、そこにある」

 透は息を呑んだ。冊子の中を開くと、名前と日付と、短い記録が並んでいた。三島義彦。その名前のそばに、霞の筆跡に似た文字で何かが書き留められていた。*移植された記憶:霞より。受容後の変化:著しい混乱。夜間の徘徊、言語混濁。中断を検討。*

「三島さんに、あなたの記憶を渡した?」

「一度だけ」

 霞の声が、ほんのわずかだけ揺れた。透が聞いた中で、霞の声が揺れたのはこれが初めてだった。

「私が持っていた記憶の断片を。先生に頼まれて、三島に渡した。それが三島を傷つけた。私はわかっていた。渡す前から、それが危険だということを」

「それでも渡した」

「渡した」

 霞は再び窓の方へ顔を向けた。白い霧は相変わらず何も映していなかった。

「あなたに怒る権利があるなら、怒っていい」と霞は言った。「私が三島を壊した一因であることは、否定できない」

 透は返す言葉を持てなかった。怒りが来なかったのは、霞の声の中の何かが——押さえ込まれた何かが——透の中にある三島の記憶の残滓と、奇妙な形で共鳴したからかもしれなかった。三島が感じた混乱を、透はすでに自分の中で知っていた。他者の記憶が自分の輪郭を溶かしていく、あの感覚を。

「霞さん」

「なに」

「なぜ協力し続けたのか——いつか、話してもらえますか」

 霞は答えなかった。長い沈黙の後、ただ「わからない」と言った。それは嘘ではなかった。しかし全部の真実でもないと、透にはわかった。

 透は冊子を霞に返そうとしたが、彼女は首を横に振った。

「持っていて。三島が受け取った記憶の記録も、その中にある。あなたが今持っているものと、照らし合わせればいい」

 透は冊子を胸に押し当てた。その薄さの中に、どれだけの重さが詰まっているかを考えた。

「もう一つだけ聞かせてください」と透は立ち上がりながら言った。「碓氷先生は、この研究で何を目指しているんですか。最終的に、何に到達しようとしている?」

 霞はしばらく黙っていた。それから、透がこれまで彼女に見たことのない種類の表情——疲労と、それよりも深い何かが混ざり合った——を浮かべた。

「先生は、人が死んだ後も記憶を生かし続けることができると信じている」

 透の足が止まった。

「死者の記憶を、生きている誰かの中に移植することで、その人は完全に消えずに済む——先生はそれを、長年の悲しみへの答えだと思っている」

 *長年の悲しみ*。

 その言葉が、透の中で何かに引っかかった。碓氷と三島が旧知の間柄だったこと。三島が死んだこと。そして今、透の中に三島の記憶の断片が棲みついていること——それらの線が、一本の糸としてゆっくりと形を作り始めた。

「先生は三島さんを、実験の完成形にしようとしていた?」

 霞は答えなかった。

 答えないことが、答えだった。

 透は部屋を出た。廊下に戻ると霧の冷たさが全身を包んだ。手の中の冊子は、他人の記録であるのに、自分の傷のように重かった。

 階段を下りながら、透は考えた。霞は言った——なぜ協力し続けたのかは言えない、と。強制ではなかったと言いながら、その理由を言葉にすることを拒んだ。

 言えない理由と、言いたくない理由は違う。

 霞が隠しているものは、まだある。透はそれを確信していた。そして同時に、霞が今日この部屋で自分に話したすべては、もしかしたら透を——自分の代わりに——どこかへ向かわせるための、精密に組まれた導線なのではないかという疑念が、小さく、しかし確かに火を灯した。

 霧の中で、何かが動いている。

 透はまだ、それが何かを知らない。

霧の中の十四番目の証人

22

霞の告白

朧月 汐音

2026-06-04

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第22話 霞の告白 - 霧の中の十四番目の証人 | 福神漬出版