食堂の窓に、今日も霧が張りついていた。

 霧積館の朝食は決まって七時半に始まる。長テーブルに並ぶ白い器、湯気を立てる味噌汁、乾いた音を立てて積まれるパン。透はいつものように末席に座り、匙を手に取った。

 前夜の村瀬の証言が、まだ頭の中で反響していた。左利きの手が、扉のノブを握り、そして離れた。道上蛍。無感情な少年の横顔が、脳裏にちらつく。透は味噌汁の椀を引き寄せながら、昨夜の自分の言葉を反芻した。あれは正しかったのか。それとも三島の記憶が、自分を誤った方向へ押しやったのか。

 その境界が、もうずいぶん前から曖昧になっていることを、透は知っていた。

 匙が椀に当たる、硬い音。

 そのとき、不意に光景が差し込んできた。

 夏の縁側。蝉の声。祖母の手が、麦茶の入ったコップを差し出している。冷えたガラスの感触が、指先によみがえる。透はその光景を、まるで息をするように受け取った。自分の記憶だ、と思った。幼い頃、長野の祖母の家で過ごした夏。縁側の木の色、麦茶の苦さ、蝉の声の密度。すべてが細部まで鮮明で、それゆえに疑わなかった。

 ところが次の瞬間、何かがずれた。

 祖母の顔が、見知らぬ顔に変わった。

 縁側の向こうに広がる庭が、透の記憶にある庭ではなかった。石灯籠の位置が違う。木の種類が違う。そして、コップを差し出す手の甲に、うっすらと浮き出た静脈の模様が、透自身の記憶の中の祖母の手ではなかった。

 それは三島の手だった。

 三島克己の、祖母の手だった。

 椀が、テーブルに落ちた。

 透は自分の手が震えているのを、遅れて知った。胃の底から、冷たい何かがせり上がってくる。脂汗が首の後ろを伝った。あの縁側は、三島の縁側だ。あの蝉の声は、三島が聞いた蝉の声だ。では自分は、三島の幼年期のどこかで夏を過ごしていたのか。いや違う、そうではなく——

 思考が、泡のように弾けた。

 透は席を立つ間もなく、口元を押さえた。隣に座っていた老人が、驚いて椅子を引く音がした。食堂の空気が、ざわめいた。

 すべてが遠い。

 透は食堂を飛び出した。廊下の冷気が頬を叩く。洗面台を目指して走りながら、脳裏では映像が切れ切れに流れ続けた。縁側、麦茶、蝉、祖母——三島の祖母、三島の夏、三島の指が触れたガラスのコップ、三島が嗅いだ草の匂い。それが今、透の感覚の中で「自分のもの」として座っている。

 洗面台に辿り着き、透は嘔吐した。

 中身はほとんど出なかった。それでも身体は何度も波打ち、透はタイルの冷たさに額を押しつけて、ただ呼吸することだけを考えた。

 「透さん」

 声がした。

 振り返らなくても分かった。夏目霞だった。

 霞は透の隣に立ち、黙って背中に手を置いた。温かくも冷たくもない、ただそこにある手の重さが、透を現実の輪郭に縫いとめた。

 「三島の記憶が、自分のものになっていた」

 透はかすれた声で言った。霞は何も言わなかった。ただ背中に置いた手を、かすかに動かした。

 「幼い頃の記憶だと思っていた。縁側で、祖母から麦茶をもらう記憶。それが、三島のものだった。自分でも気づかなかった。完全に、自分の記憶として感じていた」

 吐き出すと、涙が出てきた。透は驚いた。自分が泣いているということよりも、泣くほど怖かったのだという事実に。

 「怖い。どこからが自分の記憶か、もう分からなくなってきている」

 霞がようやく口を開いた。

 「引き継ぎすぎているの」

 断定的な声だった。感情を抑制した、しかし確かな重みを帯びた声。

 「三島さんの記憶を、あなたは吸収するだけで手放していない。器に水を注ぎ続けて、栓を開けたことがない状態よ」

 透は洗面台の縁を両手でつかんだまま、鏡の中の自分を見た。青白い顔。目の下に刻まれた翳。それは自分の顔か。三島の目が、自分の顔の中から透を見返していないか。

 「手放す、練習が必要だわ」

 霞が続けた。

 「私にはできるから。あなたに教えることができる」

 透は鏡から目を逸らし、霞を見た。霞の表情は、いつものように動かない。だがその静けさが今日は違って見えた。感情のない静けさではなく、感情を形にする必要がないほど確信に満ちた静けさのように。

 「手放す、というのは」

 「消すことじゃない」と霞は言った。「水が器から溢れないように、少しずつ外へ逃がすこと。三島さんの記憶は三島さんのもの。あなたのものではない。その境界を、感覚として取り戻す訓練よ」

 透は深く息を吸った。廊下の空気は薄く、霧の湿り気を帯びていた。

 「霞さんは、それを誰かに教わったんですか」

 一瞬、霞の目が揺れた。ほんの一瞬だったが、透にははっきりと見えた。

 「院長に」と霞は言った。「碓氷先生に教わった」

 その名前が、透の中で奇妙な引っかかりを生んだ。碓氷玄。療養院を創設した老医師。患者たちに深い慈愛を示しながら、その内側に何を隠しているのか、透はまだ摑めていない。そして霞は、碓氷から「記憶を手放す練習」を授かっている。

 「今から、やってみる?」

 霞が聞いた。透は頷いた。選択肢など、もうなかった。

 霞に促され、透は洗面台から離れた。廊下を歩きながら、透はまだ頭の中に薄く残る三島の縁側を感じていた。麦茶の苦さ、蝉の声。それが「三島のもの」だと分かっていても、感覚はまだそれを自分のものとして抱えている。

 河川が氾濫する前の、堤の感触。それが今の自分だと透は思った。

 霞が選んだのは、食堂でも病室でもなく、東棟の奥にある小さな談話室だった。誰もいない部屋。窓の外は霧だけ。二脚の椅子が向かい合って置かれている。

 「座って」

 霞が言い、透は従った。霞は正面に座り、透の両手を、躊躇なく取った。

 その瞬間、透の中で何かが流れ込む感触があった。

 霞の記憶ではなかった。霞が「渡す」能力を使っているのでもない。ただ、霞の手の温度が、透の皮膚を通じて伝わってきた。それだけのことが、不思議なほど透の輪郭を引き戻した。

 「目を閉じて」と霞が言った。「そして今、頭の中にある記憶を一つ選んで。三島さんのものでも、あなた自身のものでも。選んだら、それが誰のものか、声に出して言って」

 透は目を閉じた。

 暗闇の中で、記憶が浮かんでは沈む。縁側。麦茶。蝉。それから別の光景——雨の降る廊下、白い壁、誰かの泣き声。それは三島の記憶か、自分の記憶か。

 「廊下に雨音が聞こえている」と透は言った。「誰かが泣いている」

 「誰の記憶だと思う?」

 透は考えた。考えながら、その記憶の質感を確かめた。自分のものとして感じる記憶は、輪郭がやや柔らかく、感情が内側から滲む。三島のものは——どこか、自分の身体に合わない服を着ているような、僅かな違和感がある。

 「三島の、記憶だと思う」

 「そう。それを、今から置いてきて」

 透は息を止めた。

 「どうやって」

 「その記憶に、名前をつけて。三島克己の記憶、と。そして、透さんのものではないと、ただ確認する。消そうとしなくていい。ただ、返す」

 透は霞の手の温度を感じながら、暗闇の中でその廊下に向き合った。三島克己の記憶。三島が聞いた雨音。三島が目にした白い壁。透のものではない。

 何かが、かすかに緩んだ気がした。

 完全ではなかった。記憶は消えていない。だが、わずかに——距離が生まれた。自分と、その記憶の間に。

 透はゆっくりと目を開けた。

 霞が透を見ていた。

 「少し、できた」と透は言った。

 霞は頷いた。その顔に表情はなかったが、透はなぜかそこに安堵を読んだ。

 「続けましょう」と霞は言った。「時間がかかるわ。でも——」

 霞が言葉を切った。

 透は霞の目を見た。霞の目が、窓の外の霧を見ていた。何かを考えているような、あるいは何かを決意しているような、静かな目だった。

 「でも?」

 霞はもう一度、透を見た。

 「でも、あなたには時間がないかもしれない。三島さんの記憶の中に、まだあなたが見ていないものがある。それを見てしまう前に、境界を取り戻さなければ」

 透の背筋が、冷えた。

 「霞さんは知っているんですか。三島の記憶の中に、何があるか」

 霞は答えなかった。

 窓の外で、霧が動いた。ほんの僅かに、しかし確かに。まるで何かが、霧の中から、こちらを見ているように。

 霞の手が、透の手を、少しだけ強く握った。

霧の中の十四番目の証人

24

透の記憶が割れる

朧月 汐音

2026-06-06

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第24話 透の記憶が割れる - 霧の中の十四番目の証人 | 福神漬出版