窓の外では、霧が凪いでいた。
凪いでいる、と言っても、それはただ白さが均されたというだけのことで、視界が開けるわけではない。霧積館の霧はいつも、まるで何かを守るように、あるいは何かを閉じ込めるように、この建物の輪郭を曖昧にし続けている。
礼子と別れた後、透は夕食の時間をやり過ごし、自室で天井を見つめていた。
死亡前に作成された死亡書類。
その言葉が、頭の中で何度も形を変えて浮かんでは沈んだ。誰かがあらかじめ、三島の死を知っていた。いや、もしかしたら、計画していた。その「誰か」がもし碓氷院長であるなら——透の思考はそこで必ず壁に当たった。壁の向こうに何があるのか、想像することを、自分の中の何かが拒んでいる。吸収した記憶の残滓がそうさせるのか、あるいは透自身の怯えがそうさせるのか、判断がつかなかった。
翌朝、岡部誠一から声をかけられたのは、ちょうど透が一階の廊下を歩いていたときだった。
「瀬川さん。少し、いいですか」
白衣の袖を少し折り上げた若い男が、壁に背を預けて立っていた。年齢は三十前後だろう。線の細い顔立ちは整っているが、どこか目の奥に澱んだものがある。碓氷院長の補佐として、薬の調整や患者の経過観察を担う研修医——透はそれだけしか岡部のことを知らなかった。
「礼子さんから聞きました。証言を集めているんですよね」
岡部は透の返事を待たずに歩き出した。透は少し遅れてついていく。連れて行かれたのは、建物の北側にある処置室だった。医療用の棚と診察台が並ぶその部屋は、午前の光が白い壁に反射して、妙に清潔な印象を与えた。
「座ってください」と岡部は言い、自分もパイプ椅子に腰を下ろした。「話すと決めたんです。いつかは、と思っていたので」
透はゆっくりと向かいの椅子に座った。岡部の瞳が一度だけ、窓の外の霧に向いた。
「僕の能力のことは、ご存知ですか」
「記憶を圧縮して保存する、と聞いています」
「正確に言えば、見聞きしたことを、ほとんど劣化なく内側に記録できる。日付も、時刻も、そのときの光の加減まで」岡部はそう言いながら、自分の右手の甲をゆっくりと撫でた。「便利な能力ですよ。院長にも重宝されました。重宝されすぎたくらい」
その「重宝されすぎた」という言葉に、透は息を詰めた。岡部は続ける。
「三島さんが亡くなる、三週間前のことです。院長に呼ばれて、ある指示を受けました。三島さんの様子を、毎日記録して報告するように、と」
「監視、ですか」
「院長はそうは言いませんでした。『経過観察』と。確かに三島さんは当時、状態が安定していなかった。睡眠が乱れていて、食事もほとんど取れていなかった。ダイニングに出てこない日が増えていた。院長は医師として心配しているのだ、と、最初はそう思っていた」
ダイニングに出てこない日。透の記憶の中で、第六話——違う、第六の証言ではなく、もっと前の、この館で過ごした何日かの中で、ダイニングの席の違和感を感じたことがあった。十二人分の気配。一つ足りない席。あの感覚が、今になって意味を持ってくる。
「三島さんはなぜ、食事を取れなかったんですか」
岡部はその問いに、一瞬、表情を固くした。
「院長の実験に、参加していたからだと思います」
静寂が、処置室に満ちた。
「実験」と透は繰り返した。声が低くなったのは、自分でも気づいた。
「詳細は把握していません。ただ、三島さんが院長の診察室から出てくるとき、いつも消耗しきった顔をしていた。それは事実として、僕の中に記録されています。週に二度、三度、長いときは三時間近く、個室で院長と二人きりになっていた。僕は廊下でその様子を記録し、院長に報告していた」岡部の声は、淡々としていた。しかしその淡々さが、かえって透の胸を締め付けた。「僕は当時、それを医師の指示として受け入れていた。疑問を持ちながらも、声に出さなかった。それが、今も僕に残っている」
「三島さんの部屋で院長を見たのは、いつのことですか」
岡部は一つ、深く息を吐いた。
「三島さんが亡くなった翌朝です。朝の六時十七分。院長が三島さんの部屋から出てくるところを、廊下の突き当たりから見ました。院長は手に何かを持っていた。紙か、薄いノートのようなもの。部屋に入っていたのは、十分から十五分ほどだったと思います」
「死亡確認のためではなく?」
「死亡が確認されたのは、五時四十分頃と聞いています。その後、二度目に部屋に入ったことになる。しかも一人で。それは通常の手順ではない」岡部は静かにそう言い切った。「院長は何かを、探していた。あるいは、何かを持ち出した」
透は手の中で拳を作り、それをゆっくりと開いた。碓氷が探していたもの。礼子が「まだ渡さない」と言った、三島から預かったという紙。その二つが、透の脳裏の中で重なり合い、離れた。
「岡部さんは、それを院長に報告しましたか」
「しませんでした」岡部は初めて、視線を床に落とした。「報告していれば、何かが変わったかもしれない。でも、僕には報告できなかった。院長を信じたかったのか、怖かったのか、自分でも分からなかった」
それ以上、岡部は言わなかった。透も問い返さなかった。
この沈黙は、岡部が自分自身に問い続けてきた時間の、ほんの一片なのだと思った。
処置室を出た後、透はしばらく廊下に立ち尽くした。岡部の言葉が、自分の中に沈んでいくのを感じた。他者の記憶を吸収し続ける自分の性質は、今この瞬間も、岡部の疲れと後悔を少しずつ引き取っているかもしれない。それが怖くなるときがある。でも今日は、怖いとは思わなかった。
三島は実験に消耗し、ダイニングに出られなくなっていた。
碓氷はその死の翌朝、二度目に部屋へ入り、何かを持ち去った。
死亡書類は、三島が死ぬ前から存在していた。
証言は七つになった。しかし透には、これらの断片がまだ一つの形を結んでいない感覚があった。碓氷は冷酷な研究者なのか。それとも、何かを隠そうとしていた者なのか。あるいは——透はそこで思考を止めた。止めなければならない何かが、そこにあるような気がした。
夜になって、透は礼子の部屋を訪ねた。
ドアを叩くと、しばらく間があってから、鍵が外れる音がした。礼子は透を見て、一瞬だけ目を細めた。
「岡部さんと話しました」
「知っています」礼子は静かに言った。「彼は朝のうちに私に電話をくれました。話す、と」
「三島さんが院長に預けた紙のことを、教えてください。もう、時間がないと思う」
礼子はしばらく透を見つめていた。廊下に満ちた霧の気配が、二人の間を静かに流れていくようだった。
やがて礼子は、ドアを大きく開いた。
「入ってください」と彼女は言った。「それを渡す前に、一つだけ聞かせてください。——透さん、あなたは今、誰の記憶でここに立っていますか」
問いの意味が、肌に刺さるように伝わった。
透は答えられなかった。
それが、何より雄弁な答えであることを、礼子は既に知っているようだった。