霧は夜明けを拒んでいた。
窓の外、白くぼやけた闇が療養院の輪郭を呑み込んでいる。廊下の端にある細長い窓から外を見ても、自分の吐く息とさして変わらないものが貼りついているだけで、世界の果てがどこにあるのか見当もつかなかった。透は自分の両手を見おろした。掌の中に、まだ碓氷の声が残っているような気がした。老医師の低い、疲れ果てた声が、皮膚の奥深くに染みついて離れない。他者の記憶を吸収するという己の体質が、今この瞬間どこまで働いているのか、透には判断できなかった。
礼子の部屋に戻ると、彼女はすでに机の前に座っていた。手帖を両手で包むように持ち、その表紙を指の腹でそっと撫でている。透が扉を開けた音に気づいても、彼女は顔を上げなかった。
「村瀬さんに連絡が取れました」
透が言うと、礼子はようやく手帖から目を離した。その顔には疲労と、それを隠そうとする意志が混在していた。記録係として何年もの間この館で生きてきた女の顔だと、透は思った。何も見逃さないようにしながら、何も感じないようにしてきた顔だ。
「夜中に申し訳ない、と伝えてください」
「もう朝方です。村瀬さんは眠っていませんでした」
礼子は小さく頷いた。手帖を机の上に置いたが、手は離さなかった。透はそれを見て、あの手帖が単なる記録媒体でなく、礼子にとって何か別の意味を持つものなのだと感じた。しかし今は問う時ではない。
村瀬が部屋に来たのは、それから十分も経たないうちだった。
四十代半ばの男で、いつも同じ色褪せた灰色のカーディガンを着ている。村瀬 信一。触れたものに宿る「記憶の残響」を読み取る能力の持ち主だ。碓氷が密かに「触媒型」と分類していた体質者の一人で、透よりずっと長くこの館に滞在している。口数は少なく、笑うことをほとんどしないが、他人を傷つけることもない。ただ、何かに触れるたびに世界の余計な重さを受け取ってしまうような、くぐもった目をしていた。
「手帖ですか」
村瀬は部屋に入るなり言った。透は頷く。礼子が机の上の手帖を村瀬の方へ静かに押し出した。
「破り取られたページがあります。そこに何が書かれていたか、読み取ることができますか」
礼子の声は穏やかだったが、問いの芯は固かった。村瀬は椅子に座らず、立ったまま手帖を見つめた。
「保証はできません。残響が薄ければ何も見えない。強ければ、逆に私が混乱する」
「構いません」
短い沈黙の後、村瀬は手帖を両手で取り上げた。目を閉じる。部屋の空気が、ほんの少し変質したように透には感じられた。霧の濃度が増したような、あるいは壁の向こうから誰かが息を潜めているような感覚。透は自分の記憶吸収の能力が村瀬の行為に共鳴しないよう、意識的に気持ちを引き絞った。他者の感受を拾いすぎると、どこからどこまでが自分の知覚なのか、判らなくなる。
村瀬が目を開いたのは、三分ほど後のことだった。
「見えました」
声がかすれていた。彼は手帖を机に戻し、額に手を当てた。礼子がすかさず水を差し出すと、村瀬はそれを受け取り、一口飲んでから口を開いた。
「破られたページは、少なくとも三枚。表紙の近くのページです。残響が強かった。何度も触れられ、何度も読まれた記録だったんでしょう」
「内容は」透が問いかけた。
「記憶の強制移植実験の記録です」
静寂が落ちた。
礼子の指が、机の縁をそっと掴んだ。透はその言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが反転するような感覚を覚えた。強制移植。それはつまり、相手の意志を無視して、他者の記憶を押し込んだということだ。
「患者の一人が、別の患者に対して行ったものです。術者側の名前は読み取れなかった。ただ、受け手の名前は」
村瀬は一瞬、透を見た。
「三島 誠一、と記されていました」
透は動けなかった。
三島。あの男の名前が、再びここに戻ってくる。死んだはずの男が、霧の中から手を伸ばすように、事件の核心に絡みつき続ける。透はすでに三島の記憶の断片を己の中に飼っていた。それが他者から押し込まれたものだったとしたら。三島の苦しみの一部が、実験の産物だったとしたら。
「受け手というのは、つまり三島さんが記憶を押しつけられた、ということですか」
「そうです。しかも複数回。記録には日付が並んでいた。少なくとも五回。記録がつけられていたのは、三島がこの館に入ってから最初の一年の出来事です」
礼子が小さく息を吸う音がした。
「その記録を書いたのは、誰ですか」透は礼子に向き直って言った。
「私です」
礼子の声は揺れなかった。しかし透には、その落ち着きが感情の欠如ではなく、長年をかけて積み上げた抑制だとわかった。
「当時、私はまだ記録係になって間もなかった。碓氷先生から命じられるままに書き留めていました。実験が何を意味するか、深く考える前に。ただ、数年前に読み返して、私はあのページを——」
そこで礼子は止まった。
「あなたが破ったんですか」透は静かに訊いた。
「いいえ」
礼子の目が透を真っすぐ捉えた。
「私が破こうとした夜、すでに誰かに先を越されていた。三枚とも、もう存在しなかった。私は空白のページの痕跡だけを見て、自分が破いたのかと錯覚しかけた。でも違う。誰かが私より先に、あの記録を消しにきた」
誰が。何のために。
透の思考が走り始めた瞬間、廊下の向こうから微かな足音が聞こえた気がした。深夜ではなく夜明けの足音。霧の中を誰かが歩いているような、その軽さ。透は扉に目をやった。足音はすぐに消えた。
「村瀬さん」透は言った。「術者の名前は本当に読み取れませんでしたか」
「残響が、そこだけ焼き切れていた。意図的に消されたように感じました」
透の背筋が冷えた。記憶を消す能力を持つ者がいる。この館に。道上 蛍——あの少年が頭に浮かんだ。無感情な目。自らの過去を失った少年。しかし蛍がなぜ礼子の手帖に触れたのか。三島の実験記録と蛍の能力がどう結びつくのか。
霧はまだ晴れない。むしろ濃くなっているように思えた。
礼子が手帖を抱き直した。その目には、記録者として何かを書き留めることへの、静かな覚悟が宿っていた。
「透さん」と彼女は言った。「次に私たちが話を聞くべき相手が、見えてきたような気がします」
透は頷いた。しかし心の奥では、答えに近づくほど問いが増えていくこの感覚に、もはや慣れてしまっていた自分を見つけていた。三島の記憶が、また微かに波を立てた。赦されたかった、という声が、遠く霧の底から響いた。