夜が深まるにつれて、霧は一層その密度を増していった。
窓の外は白一色に塗り潰されていて、霧積館の灯りがそこへ染み出すように滲んでいる。透はベッドの上に座り、膝の上に置いた手をじっと見つめていた。神田孝三の証言が、まだ頭の中を反響していた。
三島は「赦されたかった」と言っていた。
その言葉の重さが、いつの間にか透自身の胸の奥に根を張っているような気がする。三島誠一という男を、透は会ったことがない。しかしその記憶の断片は今や透の中に棲みついていて、時折、自分のものか他人のものか判断できない感情として波頭を立てる。廊下の黴臭い匂い。誰かに謝りたいと思いながら眠れなかった夜。赦しを求める言葉が喉元まで来ていながら、最後まで吐き出せなかった沈黙。
それは三島のものか、それとも透自身の記憶が三島の色に染まってしまったのか。
もはや分からなかった。
部屋のドアを叩く音がしたのは、廊下の時計が午前二時を打つ少し前だった。
軽い、控えめな音だった。それでも静謐の中でそれは明確に響いて、透は顔を上げた。立ち上がり、ドアを開ける。
道上蛍が立っていた。
薄い灰色の寝巻きを着て、廊下の灯りを背中から受けている。その顔には相変わらず感情の起伏らしきものが見当たらず、ただじっとこちらを見上げていた。黒い瞳が、霧の中の水面のように静かだった。
「起きていると思っていました」
蛍が言った。低く静かな声で、囁くというほど小さくもなく、廊下に響くというほど大きくもない。計算されているのか、それとも自然にそういう声音になるのか、透には判断がつかなかった。
「何か用か」
「話があります。入ってもいいですか」
透は少し迷ってから、ドアを大きく開けた。
蛍は音もなく室内へ入り、椅子に座ることも勧められた窓際に立つこともせず、ベッドの端に軽く腰を下ろした。透が向かいに立つと、蛍は膝の上で指を組み合わせて、静かに口を開いた。
「透さんが三島さんの記憶を持っているうちは、あなたは危ない」
単刀直入だった。飾りのない、刃のような言葉だった。
「危ない、というのは」
「あの夜に何があったかを知っている人間は、院の中で透さんだけです。他の証人たちはそれぞれの断片しか持っていない。でも透さんは十三人分の証言に加えて、三島さん自身の記憶を抱えている。それは……ある人間にとって、非常に不都合なことです」
透は蛍の言葉の輪郭をゆっくりと辿った。
「ある人間というのは誰のことだ」
「今はまだ言えません」
「言えない、じゃなくて言わないんだろう」
蛍は少しだけ目を細めた。それが困惑の表れなのか、あるいは別の何かなのか、透には読み取れなかった。
「透さんは鋭い。……そうです、言わない。言うことで、状況が変わってしまう可能性がある」
「俺を守りたいのか、それとも何かを隠したいのか」
沈黙があった。霧積館のどこかで風が壁を叩く音がして、二人のあいだの空気がかすかに揺れたように透は感じた。
「両方かもしれません」
蛍が静かに言った。誤魔化しのない言葉だった。それがかえって透の胸の奥に重く落ちた。
「私には三島さんの記憶を透さんの中から除去することができます」
蛍は続けた。淡々とした口調だったが、その言葉の意味の大きさが部屋の空気を僅かに変えた。
「三島さんから受け取った記憶の全て。消すことができます。透さんの中に残った三島さんという存在を、綺麗に拭い去ることができる。そうすれば透さんは身軽になれる。危険も遠のく」
透は自分の呼吸が一瞬止まったことに気づいた。
身軽になれる。その言葉の甘さを、透は確かに感じた。三島の記憶を宿してから、透は常に自分の輪郭が曖昧なまま生きている。自分の感情なのか三島の感情なのか。自分の恐れなのか三島の恐れなのか。その区別のつかない混濁の中で、何度「全部消えてしまえばいい」と思ったか分からない。
三島の記憶が消えれば、透は透に戻れる。
あるいは、戻れると錯覚できる。
「断る」
透の口から言葉が出たのは、しかし、ほとんど考えるより先だった。
自分でも少し驚いて、透は自分の声の跡を確かめるようにもう一度繰り返した。
「断る。受け入れるつもりはない」
蛍の瞳がわずかに揺れた。
「理由を聞かせてもらえますか」
透は目を閉じた。暗闇の中に、夏目霞の声が戻ってくる。いつだっただろうか。霞が透の手をそっと取って、まるで何かを手渡すように言った言葉。その声の質感を透は覚えている。
「必ず返して」
それだけだった。霞はそれだけ言った。三島の記憶を透が受け取った直後、霞は透の目を見て、そう言った。それが命令なのか願いなのか、透にはまだ分からない。しかし霞がその言葉に込めたものの重さは、はっきりと伝わっていた。
「霞さんが、返せと言った」
透は目を開けて、蛍を見た。
「三島さんの記憶を俺が持っている間は、霞さんはそれを俺から受け取ることができる。三島さんが最後に伝えたかった何かが、まだその中にあるんだと思う。それを俺が失ってしまったら、霞さんはもう辿り着けない。俺には、それを勝手に消す権利がない」
蛍はしばらく透を見つめていた。
その目の奥で、何かがゆっくりと動いているのを透は感じた。悲しみとも諦めとも違う、もっと複雑なものが。自分の能力によって自らの過去を根こそぎ奪われたという蛍が、今ここで誰かの記憶を消すことを申し出ている。その行為の意味を、蛍自身はどう捉えているのだろうか。
「蛍」
透は初めて敬称なしで呼んだ。蛍の瞳が微かに揺れた。
「お前が自分の記憶を失くしたのは、誰かに消されたからか」
沈黙。
「……はい」
「その誰かに、お前は今でも怒っているか」
蛍は答えなかった。答えないことが答えだった。透は続けた。
「三島さんの記憶の中に、蛍に関係することが含まれていると思うか」
その問いに、蛍の表情が初めて微かに動いた。動いた、というより、固まった。それまで無表情だった面が、かすかな緊張の皺を刻んだ。
「……私には分かりません」
「分からない、か」
透は静かに息を吐いた。部屋の中の霧のような沈黙が、二人のあいだに漂っていた。
「蛍、一つだけ教えてくれ。お前は今夜ここへ来たことを、院長に告げるつもりがあるか」
蛍は長い間黙っていた。
そして立ち上がった。椅子でも窓枠でもなく、ベッドの端から。その動作は静かで、感情を読ませなかった。
「おやすみなさい、透さん」
それだけ言って、蛍はドアへ向かった。透は呼び止めなかった。
ドアが閉まる直前、蛍が振り返った。その目が透の目と合った。
「私が自分の能力を使うとき、相手の記憶は消えます。でも私の中には、その輪郭だけが残るんです」
何かを消した、という事実の痕跡だけが。
「だから私は、何を忘れさせたかを覚えていない。でも忘れさせたことだけは覚えている」
蛍の声は相変わらず静かだったが、透はその言葉が自分の胸の深いところへ降りてくるのを感じた。
ドアが閉まった。
透は一人になった部屋の中で、再びベッドに腰を下ろした。蛍の言葉が、水の底に沈んだ石のように胸の底に居座っている。
三島の記憶がざわめくように揺れた。その波紋の中に、透は見たことのない誰かの顔を垣間見た気がした。それは三島の記憶の中の人物なのか、それとも蛍と繋がる誰かなのか。
霧積館の夜は、まだ深く続いていた。