夕暮れの廊下は、霧を内側に飲み込んだように薄暗かった。

 北アルプスの日没は早い。窓の外では橙色の残光が霧に滲んで、何もかもを曖昧な輪郭に溶かしていた。透は夕食の時刻を知らせる鐘を聞きながら、二階東棟の廊下をゆっくりと歩いていた。昨夜もよく眠れなかった。眠るたびに誰かの記憶が流れ込んでくる。名前も顔も知らない人間の、雨の日の台所だとか、母親の手の感触だとかが、まるで自分のものであるかのように胸に積もっていく。

 夏目霞の声が、まだ耳に残っていた。

 ──あなたは危険。

 自分でもそれは分かっていた。ただ、危険という言葉が自分に向けられたものなのか、それとも自分が誰かにとっての危険なのか、透にはまだ判断がつかなかった。

 曲がり角を折れたとき、廊下の突き当たりに人影があった。

 小柄だった。療養院の支給する灰色の上着を纏い、窓の外を見ていた。透が足を止めると、相手も動かなかった。どちらも先に声を発せず、霧の気配だけが廊下に満ちた。

 透がゆっくりと近づくと、それが少年であることが分かった。十四か五か、あるいはもっと幼いかもしれない。髪は黒く、うなじが細く白かった。振り返りもせず、ただ窓の外の霧を見つめている。

 「道上、さん?」

 名前は礼子から聞いていた。記録係の彼女が手帖に書き記した院内の人物一覧の中に、道上蛍という名前があった。十五歳。記憶消去能力保有者。それだけだった。

 少年は振り返った。

 顔が、思ったよりも整っていた。目が大きく、睫毛が長かった。しかしその目の中に、透が期待していたような何かがなかった。驚きも、警戒も、好奇心も。ただそこに、目という器官があるというだけのような、虚ろな静けさがあった。

 「透さん」と少年は言った。名前を呼ばれたことよりも、その声の質が透を驚かせた。低すぎず高すぎず、抑揚がほとんどなかった。楽器に例えるなら、弦が一本だけ張られた琴のようだった。

 「知ってるんだね、俺のこと」

 「礼子さんが話していました」

 「そうか」と透は言って、少年の隣に立った。窓の外には霧があった。いつもの霧だった。霧積館の霧は季節も時刻も選ばない。

 「ここに来て長いの?」

 蛍は少し間を置いた。「分かりません」

 「分からない?」

 「いくつかのことが、分からなくなっています」

 答えを拒絶しているのではないと、透は直感した。本当に、分からないのだ。その口調に嘘をつくための温度がなかった。透は自分の中の三島の記憶が、かすかに揺れるのを感じた。三島は蛍を知っていたのだろうか。あるいは蛍の能力によって、三島の何かが消されたことがあったのだろうか。

 「君の能力のこと」と透は言ってから、少し考えた。「記憶を消せるって聞いた。自分の記憶も?」

 蛍は再び窓の外を向いた。「聞かないでください」

 それが拒絶なのか、懇願なのか、透には分からなかった。少年の横顔は静かで、夕霧の光の中で少し青白く見えた。透はそれ以上何も聞かなかった。二人は並んで、しばらく霧を見ていた。

 夕食の二度目の鐘が鳴った。蛍は音もなく廊下を歩いていった。透はその後ろ姿を見送りながら、少年の背中がやけに頼りなく見えることに気づいた。十五歳の背中というよりも、ずっと幼い子供の背中だった。あるいはそれは、何かを根こそぎ奪われた者の背中の形をしていたのかもしれない。

---

 その夜、透は夢を見た。

 見慣れない台所だった。低い天井、古びた木の床、小さな窓から差し込む光が薄かった。誰かの子供の頃の、夏の昼下がりのように感じられた。

 子供がいた。

 四つか五つの男の子が、台所の隅にしゃがんでいた。膝を抱えていた。髪が黒く、うなじが細かった。

 透はすぐに分かった。道上蛍だ、と思った。正確にはかつての蛍、記憶の中の蛍だ。自分が見ているのは夢であるとも分かっていた。それでも台所の湿った空気の匂いや、板張りの床の冷たさが、素肌に触れてくるほどにリアルだった。

 子供は何かを聞いていた。

 廊下の向こうから、大人の声がしていた。怒鳴り声ではなかった。ただ、低く、繰り返されていた。透には言葉が聞き取れなかった。子供は膝の上に顔を伏せ、小さな肩をわずかに震わせていた。

 次の瞬間、映像が崩れた。

 テレビの砂嵐のような白いノイズが画面を覆い、台所も子供もその声も、一瞬で消えた。何かが上書きされ、削り取られた跡のような虚白だけが残った。透は霧の中に放り出された感覚がした。どこにも足場がなく、どちらが上か下か分からない白い空間に、ただ浮かんでいた。

 それでもわずかな残像があった。

 子供の、震える背中。廊下の向こうの声。そして、子供の手が何かを握りしめていた。小さな手に収まる、白い何かを。それが何であるかを確かめようとした瞬間に、ノイズが再び走り、残像も霧散した。

 透は目を覚ました。

 天井が暗かった。自分が療養院の個室にいることを確認するまでに、少し時間がかかった。汗をかいていた。心臓が、普段より速く動いていた。

 透は枕に頭を戻さず、暗闇の中でしばらく天井を見ていた。夢に映った子供の顔が、まだ瞼の裏にあった。整った目鼻立ち、細いうなじ、震える肩。それは確かに蛍だった。しかし台所の光景は、透が今日まで蛍について知ったいかなる情報とも結びつかなかった。誰かから聞いた話でもなく、礼子の手帖にあった記録でもない。

 では、これは誰の記憶なのか。

 蛍の、だろう。しかし蛍の記憶がどうして自分の夢に流れ込んでくる。透は蛍に触れていない。廊下で並んで立っただけだ。それだけで記憶が流れてくることは、これまでにもあった。しかし今夜の夢には、明らかに異質なものがあった。

 ノイズだ。

 これまで透の夢に映り込んだ他者の記憶は、多くの場合、鮮明すぎるほど鮮明だった。感覚も感情も、自分のものとの区別がつかないほどに。しかし今夜の記憶には、削られた跡があった。意図的に、あるいは無意識に、何かが取り除かれていた。それは記憶の欠落ではなく、消去の痕跡だった。

 透はゆっくりと起き上がり、窓の外を見た。霧があった。いつもの霧だった。深夜の霧積館を包む霧は、昼間よりも密度が高く、廊下の外灯の光さえ白く滲ませていた。

 台所で何があったのか。

 子供が握っていた白いものは何だったのか。

 廊下の向こうの声は、誰の声だったのか。

 そして何より、蛍は自分の記憶を自分で消したのか。それとも誰かに消させたのか。

 透は窓に額をつけた。冷たいガラスの温度が、少しだけ頭の熱を和らげた。ノイズの向こうに何かがある。その確信だけが、眠れない夜の透の中で、静かに、しかし確実に、根を張り始めていた。

 廊下の外を誰かが歩く足音がした。

 透は息を止めた。規則的な足音だった。足音は透の部屋の前を通り過ぎ、やがて遠ざかった。

 しかし透には分かった。その足音の軽さが、十五歳の少年のものに似ていると。

 蛍は今夜、何を見ているのだろう。それとも彼は、何も見ることができない夜を過ごしているのだろうか。

霧の中の十四番目の証人

5

消えた少年

朧月 汐音

2026-05-18

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第5話 消えた少年 - 霧の中の十四番目の証人 | 福神漬出版