夜が剥がれるとき、音がする。
それは潮の音でも、鳥の声でもない。もっと内側の、どこか皮膚と魂の境目あたりで鳴る、ほとんど痛みに似た音だ。澪はそれで目を覚ました。
蒲団の中で、しばらく天井を見ていた。板張りの染みが、いつもと同じ形をしている。箪笥の角に引っかけた喪服の帯が、いつもと同じ重さで垂れ下がっている。すべてが変わらないのに、自分だけが何かひどく違う場所から帰ってきたような感覚があった。
夫の夢を見た。
夢の中で彼は笑っていた。市場の縹色の灯の下で、ではなく、二人がよく行った波止場の、あの錆びた手すりのそばで。「澪、お前はいつも帰り際に振り返りすぎる」と、彼は言った。声の質まで覚えている。少し低くて、語尾が若干溶けるような、あの声だ。澪は指先を布団の上で動かした。何かを確かめるように。
縹色の目の少女が、自分の手に触れた。
あの冷たさだけが、まだ手のひらに残っている気がした。
*
千斗が目を覚ましたのは、波止場近くの安宿の二段ベッドの上だった。天井が低く、木の節が顔のように見える。彼はいつもそれを、朝の挨拶代わりに眺めた。
起き上がり、枕元の手帳を確認する。昨夜の筆談の痕跡。市場の帰路でぼんやりしながら書き殴った言葉の断片が、我ながら乱暴な字で並んでいた。
〈縹の少女、澪という女に触れた〉
〈白榊の影、まだ見ていない〉
〈無名は何かを知っている〉
最後の一行に、千斗は二重線を引いた。知っているのは当然だ。問題は、何を知っていて、何を隠しているかだ。
声を失ってから三年が経つ。病と引き換えに声を売り、生き延びた。後悔はない、と自分に言い聞かせるのが癖になっていた。後悔がないとは言えないが、後悔するほど生を疎かにしたくもない。それが彼の均衡だった。
窓の外、港の方角から魚を呼ぶ声が聞こえてくる。朝市が始まっている。千斗は手帳を閉じ、薄い上着を羽織って宿を出た。市場の空気をまだ体に残したまま、現世の朝の中を歩いた。
*
黄仁は、自分の店の勝手口から現世に戻った。
彼の店は港町の目抜き通りから一本入った路地にある、古い陶器屋だ。先代から受け継いだ店で、今では彼一人で切り盛りしている。継ぎ接ぎ市場には十年ほど通っている。最初の取引は、亡くなった父の最後の言葉と、父の死に際に流した涙だった。今思えば馬鹿な取引だったが、若さとはそういうものだろうと自分を許している。
勝手口の鍵を閉め、店に入る。棚に並んだ磁器が朝の光を受けて白く光っている。仕入れの帳簿、積み上げた梱包材、床の歪み。すべてが馴染んだ重さで彼を迎えた。
「帰ったか」と、彼は独り言を言う習慣がある。誰かに向けてではなく、自分の中の何かに向けて。
湯を沸かしながら、窓の外を見た。路地の入り口に、誰かが立っていた。
老婆だった。
*
白榊糸子は、朝の光が好きではない。
朝の光は正直すぎる。影の輪郭を鮮明にして、隠せるものを減らしていく。彼女のような仕事をする者には、夕暮れや曇天の方が向いている。それでも今朝は、この正直な光の中に立つことを選んだ。観察には時に、相手に見られることも含まれる。
黄仁の店の前の路地で、彼女は少し立ち止まった。店の中で男が窓の外を見ている。目が合った。糸子は小さく頷き、路地を歩き続けた。急ぐでもなく、蹴つまずくでもなく、ただ時間と空間の隙間を縫うように。
彼女の持つ帳面には、三つの名前が記されていた。
朱雀澪。千斗。黄仁。
それぞれの横に、細かい字で何事かが書き付けてある。糸子は歩きながら帳面を開くことはしなかった。内容はもう、頭の中にある。
「百年は短い」と、彼女はひとりごちた。潮の匂いを含んだ朝風が通り過ぎる。「短いから、急がなければ」
*
澪は午前中、台所に立ち続けた。特に何かを作るわけでもなく、米を研いだり、乾物を確認したり、引き出しの中の薬袋を整理したりした。手を動かしていないと、夢の残像に飲み込まれそうな気がした。
夫が死んで四年になる。記憶を売り始めたのは、その翌年からだ。最初は苦しくて売った。覚えていることが痛かった。だがあるとき気づいた。売った記憶の痛みは消えるが、売った事実だけが残る。そしてその事実が、また別の苦しみを生む。
今朝の夢で、夫は「振り返りすぎる」と言った。
澪は台所の小窓から外を見た。細い路地の向こうに、海が光っている。
人影があった。
白髪を束ねた老婆が、路地の突き当たりに立っていた。こちらを見ているようだったが、澪が目を細めた瞬間には、もういなかった。
*
千斗は朝市を歩きながら、手帳に新しいページを開いた。人ごみの中で、手話は使えない。筆談もできない。彼にとって人ごみは、完全な沈黙の場所だ。
だから彼は観察に集中する。目だけで世界を読む訓練を、声を失ってから続けてきた。
魚屋の前で、足が止まった。
老婆が、魚を見ている。
それだけなら何でもない。だが千斗は、その老婆の手元を見た。帳面を持っている。薄い、革表紙の。そしてその帳面に、何かを書き付けている。視線を動かさず、ただ手だけを動かして。
千斗は朝市の人ごみに紛れながら、角度を変えた。老婆の横顔が見えた。
白榊糸子。
その名を千斗は知っている。市場の裏を調べる中で、何度か耳に入った名だ。監査官。取引の記録者。あるいは破棄者。情報によって肩書は異なったが、一致していたのは「あの老婆に目をつけられた者は、市場に戻れなくなる」という点だった。
老婆が顔を上げた。
千斗と視線が合った。
老婆は微笑んだ。慈愛でも警戒でもない、何か別のものを含んだ笑みだった。千斗はすぐに目を逸らし、人ごみの中に沈んだ。心臓が、声のない喉の代わりに、激しく音を立てていた。
*
夕方、澪は仏壇の前に座った。
線香を立て、手を合わせ、目を閉じる。いつものことだ。だが今日は、夫の写真をいつもより長く見た。縹色ではない。黒い目だ。当たり前だ。でも夢の中では、笑い方がどこか似ていた気がした。あの少女と。
「あなた」と、澪は小さく言った。「私が売った記憶の中に、何かあった?」
答えは返らない。それも当然だ。
だが今夜初めて、その沈黙が「空」ではなく「満ちている」ように感じられた。何かが、この四年間の沈黙の中に潜んでいる。ずっとそこにあったのに、澪が見ようとしなかっただけなのかもしれない。
線香の煙が、縹色に見えた。
*
夜、黄仁は帳簿を閉じる前に、今朝の老婆のことを思った。
目が合った。頷かれた。それだけだ。だが胸の底に小石を投げ込まれたような感触が、一日中消えなかった。
継ぎ接ぎ市場に通う者には、ある種の嗅覚が育つ。危険の気配を、論理より先に感じ取る嗅覚が。
あの老婆は、危険だ。
理由は説明できない。それでも確信があった。そして確信がある以上、無名に知らせなければならない。だが次の市場は百年後。いや、そういうことではない。あの男には、市場の外でも伝える方法があるはずだ。
黄仁は帳簿の余白に短く書いた。
〈監査官、現世に出た〉
その紙を折り、引き出しの奥にしまった。次に市場に入れたとき、渡す相手はわかっている。
*
港町の夜は早く更ける。
灯台の光が、一定の間隔で海を撫でる。潮が満ちている。百年前の満月の夜に誰かが売った何かが、今夜もどこかの砂の下で眠っているかもしれない。
細い路地の角に、白榊糸子は最後に立った。
帳面を開き、三つの名の横に、それぞれ短い言葉を書き足した。筆の動きは静かで、迷いがない。
書き終えると、帳面を閉じた。
「三人とも」と、彼女は夜の海に向かって言った。「思ったより、根が深い」
口の端が少し上がった。
それは微笑みではなかった。もっと昏いものだった。
潮風が彼女の白髪を揺らし、灯台の光が一瞬、路地の入り口を白く照らした。だがそのとき糸子はもうそこにいなかった。残ったのは、潮の匂いと、石畳に刻まれた老婆の足跡だけだった。
その足跡の向かう先は、継ぎ接ぎ市場の方角ではなかった。