潮の匂いが、夜を重くしていた。
継ぎ接ぎ市場が立つ夜でもなく、立たぬ夜でもない、ただの満月前の端境に、〈無名〉は市場跡地に一人で立っていた。跡地と言っても、そこには何もない。港の外れの、三本の路地が奇妙な角度で交わる場所。昼間は誰もここに足を踏み入れない。石畳の目地に何かが染みついているのを、人の皮膚が無意識に嗅ぎ取るのだろう。それが記憶の滓なのか、感情の揮発したものなのか、〈無名〉にはよくわかっていた。百年ぶんの取引が、石の隙間に眠っている。
月が港の黒い水面を照らしていた。遠く、灯台の明かりが一定の間隔で瞬く。〈無名〉はその光を数えるともなく数え、懐に手を入れた。指先に触れるのは、小さな帳簿だ。表紙の革は擦り切れて、角が丸く柔らかくなっている。開けば最初のページは白紙で、その白さだけが他のどの頁よりも鮮やかに見えた。名前が書かれるべき場所に、何も書かれていない。〈無名〉はそのページだけは絶対に見ないことにしていた。見れば何かが溢れ出す気がして、それを自分は今まだ受け取る器を持っていないと知っているから。
帳簿を懐に戻す。
夜風が路地の角を曲がって、石畳を舐めた。
そのとき、縹が現れた。
ふいに、というより、初めからそこにいたのに気づかなかった、という種類の現れ方だった。三本の路地の交点から二歩ほど離れた場所に、少女の輪郭がある。月光を受けても影を作らない。着ているものの色が、その名の通り青みがかった淡い灰色で、潮の夜気に溶けそうに薄い。顔立ちははっきりしているのに、見つめるほどに靄がかかるような不思議な存在感だった。
〈無名〉は驚かなかった。驚くことができなくなって、どれほど経つだろう。
「来たな」
言葉にするつもりはなかった。ただ口が動いた。縹は何も答えない。答えたことが一度もない。ただこちらを見て、その目の奥に、水底のような静けさをたたえている。
〈無名〉は石畳の上に腰を下ろした。行儀の悪い座り方だが、ここには誰もいない。縹も静かに傍らに佇む。座ることも、ない。彼女は地面に重さを持たないから。
沈黙が長く続いた。それは苦しい沈黙ではなかった。百年以上を共にすれば、沈黙さえも会話の一種になる。〈無名〉は月を見上げ、縹は〈無名〉を見ていた。いつもそうだ。彼女は市場の中だけに現れ、市場が閉じている夜には来ないはずなのに、こういう夜だけは例外だった。満月の近い夜。潮の匂いが最も濃い夜。
何かを守るように、縹はここにいる。
〈無名〉はそれを知っている。彼女が何を守っているのかも、ずっと前から知っている。それでも口にしたことはなかった。口にすれば、取引が成立してしまう気がして。言葉は市場の外でも、時として交換の道具になる。
「もう少しだけ」
〈無名〉は呟いた。石畳に向かって、あるいは誰に向けるでもなく。縹の気配が、わずかに揺れた。揺れた、というより、彼女の輪郭が一瞬だけ鮮やかになった。それが返答だと〈無名〉は受け取った。
もう少しだけ、このままでいさせてくれ。
名前を持っていた頃の話を、〈無名〉は滅多にしない。する相手もいない。千斗は聡い子だが、まだ若く、何より彼は市場の構造を暴こうとしている。澪は深いところで何かを感じ取っている女だが、彼女には彼女の痛みがある。黄仁は――黄仁は今夜、老婆の訪問を受けたはずだ。あの男がどんな顔をして応対したか、想像するのは難しくない。真実を語る義務を買った男が、嘘で出来た店の奥で、沈黙を選んでいる。
縹だけが知っている。
名前があった頃、〈無名〉には一人の人間がいた。性別も年も、今となってはうまく思い出せない。思い出せないのではなく、思い出さないようにしているのかもしれない。ただ確かなのは、その人間が市場で何かを売り、売りすぎて、戻れなくなったということだ。感情を、少しずつ、少しずつ。澪がやっているように。
〈無名〉が名前を売ったのは、その取引を止めるためだった。
名前を対価に差し出せば、市場に留まる義務を得ることができる。留まり続ければ、いつかその人間が市場に来たとき、今度は自分が売り戻す側に立てると思っていた。感情を。記憶を。その人間が手放したものを、すべて自分が買い取って、返してやれると。
だが市場は百年に一度しか立たない。
その人間は、次の市場が開くまで待てなかった。
縹は、その人間の感情の残滓だ。売られて、誰にも買われなかった感情が、市場の隙間に宿って、少女の形を取った。喜怒哀楽を束ねたのではなく、ただ一つの感情だけが残った。何かを大切に思う気持ち。守ろうとする気持ち。それだけが、薄い青灰色の少女になって、百年以上、市場に漂っている。
縹は〈無名〉を守っている。
〈無名〉は縹を手放せないでいる。
それが義務なのか、意地なのか、あるいは贖罪なのか、自分でも判然としない。ただ、縹がそこにいる限り、あの人間がここにいた証になる。縹が消えれば、最後の痕跡が消える。名前を持っていた頃の自分が、本当に何者でもなくなる。
「わかってる」
〈無名〉は石畳に向かって言った。「わかってるよ。お前が何を待ってるかも」
縹の輪郭がまた揺れた。今度は少し、哀しそうに見えた。幽影に哀しさが宿るとしたら、こういう形をしているだろうという揺らぎ方だった。
彼女は待っている。〈無名〉が手放す日を。義務から解き放たれる日を。名前を取り戻す日を。
守るとは、縛ることではない。縹はそれを知っているのかもしれない。ただ己の性質として、守ることしかできないから、こうして傍らにいる。手放す準備が整う日まで、ここにいる。
〈無名〉は帳簿をもう一度取り出した。最初のページを開かずに、ただ表紙を親指でなぞる。革の感触が、掌に馴染んでいる。百年以上持ち歩いたものの感触だ。
澪が来るだろう。千斗も来るだろう。糸子はすでに動き出している。次の市場が開くまで、あと幾夜もない。
何かが、今回は違う。
〈無名〉はそれを骨の奥で感じていた。百年に一度の市場を何度も経験してきたが、今回ほど多くの人間が絡み合った回はなかった。記憶を取り戻そうとする女。声と引き換えに生を受けた少年。真実を語る義務を持ちながら嘘の中に住む古物商。そして市場を終わらせようとする老婆。
どれも偶然ではない気がする。市場は偶然を好まない。すべての出会いは取引の前置きだ。
「もう少しだけ」
もう一度、呟いた。今度は縹に向けて。
縹は答えない。ただそこにいる。月光に溶けそうな青灰色の輪郭で、〈無名〉の傍らに。
潮が満ちてくる音が、遠く、低く、聞こえていた。石畳の目地の中で眠っている百年ぶんの取引が、その音に応えるように、微かに疼いた気がした。
〈無名〉は立ち上がり、帳簿を懐に納めた。
振り返らずに歩き出す。三本の路地の交点を離れ、港の灯台の光が届く場所まで。縹の気配が背中に残る。追ってこないことは知っている。彼女は市場の場所からあまり離れない。
足を止めずに、〈無名〉は一度だけ言った。
「待たせてすまない」
答えは聞こえなかった。聞こえるはずもなかった。
だが潮の匂いが、一瞬だけ変わった気がした。塩と夜気の中に、花のような、古い何かのような、名前のつけにくい匂いが混じって、すぐに消えた。
〈無名〉はそれを胸の奥に仕舞って、夜の港町を歩き続けた。次の市場が立つ夜まで、あと幾夜。帳簿の最初のページの白さが、懐の中でひっそりと光っているような気がして、〈無名〉はその気配から目を逸らしたまま、足を前に踏み出し続けた。