黄仁が港の外れにある坂道を登ったのは、潮が引きはじめた午後のことだった。
石畳の継ぎ目から雑草が顔を出し、その隙間にまだ朝露が光っている。真夜中の廃倉庫で千斗が目撃した一件が町じゅうの路地裏に染み渡るように噂になりはじめているのを、黄仁は市場へ向かう魚売りの声からそれとなく聞いた。記憶を奪われた少女のこと、外套の男のこと。そして、その背後に透けて見える白い影のこと。
黄仁は足を止めた。坂の中腹、古い染物屋の軒先に藍色の布が垂れ下がって、風にゆっくりと揺れていた。
藍。その色を見るたびに、黄仁の胃の底に鈍い痛みが走る。
弟子の娘の名は、蓮といった。
*
黄仁がその名を忘れようとしたのは七年前のことだ。師匠格の老職人——染物師の陸徳——が病床に臥せった年の秋、黄仁は陸徳の工房を継ぐことを周囲から期待されていた。弟子の中で最も腕が立ち、口も達者で、得意先の旦那衆を笑わせながら商談をまとめる才に長けていた。
嘘をつくことが、黄仁には呼吸のように易しかった。
悪意のない嘘、人を喜ばせる嘘、その場を丸く収める嘘。黄仁はそれらを「愛嬌」と呼んで疑わなかった。陸徳の工房の権利書に細工を加えたときも、最初はほんの少しの書き換えのつもりだった。蓮が成人して工房を引き継ぐまでの、つなぎのための方便だと自分に言い聞かせた。
だが方便は根を張った。
気づけば工房は黄仁の名義になり、蓮は父が残した機織り機一台と染料の残滓だけを持って、町外れの裏長屋に移っていた。
陸徳が死ぬ三日前、黄仁を枕元に呼んだ。老人の目は濁っていたが、その濁りの奥に何かが灯っていた。黄仁はその光を直視できなかった。
「蓮を、頼む」
たったそれだけだった。黄仁は頷いた。それも嘘だった。
*
坂の上に、煤けた白壁の一軒家があった。格子窓から布の匂いが流れ出ていた。藍と茜が交じり合った、甘くて鋭い香り。黄仁は門の前で三度、深呼吸した。
嘘の才能を継ぎ接ぎ市場に売り払ってから、もう七日が経つ。最初の三日は口が滑らかなままだった。習慣というのは才能より根深い。だが今はもう違う。先日、仕入れ先の商人に「品物はいつもどおり上等です」と言おうとして、口の中で言葉が溶けた。上等ではなかった。そのことが喉元まで来て、黄仁はただ黙って頷くしかなかった。
真実だけが残ると、世界はこんなにも無防備だった。
格子戸を叩く前に、中から声がした。
「どなたですか」
低くはないが、張りのある声。黄仁は七年ぶりにその声を聞いて、足の裏から何かが抜けていくような感覚を覚えた。
「黄仁です」
沈黙があった。長い沈黙ではなかったが、黄仁にはひどく長く感じられた。
格子戸が開いた。
蓮は、思っていたより老けていなかった。いや、正確には、老けているのに綺麗だった。目尻に細かな皺が刻まれ、髪には白いものが混じっているが、その目は父親の陸徳がそうであったように、濁りの奥に何かが灯っていた。
「入りますか」
問いではなく、ほとんど確認のような言い方だった。黄仁は頷いた。
*
部屋は狭かったが、清潔だった。壁際に織り機が置かれ、色とりどりの糸が棚に並んでいる。父の機織り機だろうか、と黄仁は思ったが確かめる勇気がなかった。
蓮は茶を淹れた。黄仁はその所作を眺めながら、何度も言葉を探した。嘘ならいくつでも浮かんだ。昔の習い性で、すらすらと出てくる。謝罪を包む美しい言い訳、事情を説明する流暢な弁明、涙さえ混じれば誰もが信じるような悔恨の演技。
だが黄仁の口は開かなかった。
才能がないのではない。才能はまだ身体のどこかに染みついている。ただ、今それを使ったら、この女の前に立った意味がなくなると、そう思った。
「なぜ来たんですか」
蓮が茶碗を差し出しながら言った。責める口調ではなく、純粋な問いだった。
「謝りに来た」
三つの言葉を絞り出すのに、黄仁は茶碗を両手で持ちながら目を伏せた。その言葉は、装飾がなかった。飾り気のない岩のような言葉で、黄仁はそれが自分の口から出たことに、奇妙な驚きを覚えた。
「父の工房のこと、ですか」
「そうだ」
「七年、経ちましたね」
「ああ」
蓮はしばらく自分の茶碗を見つめていた。やがて静かに言った。
「もう許しています」
黄仁は顔を上げた。
「怒っていないと言えば嘘になります。最初の二、三年は、毎晩呪いました」蓮の声は穏やかだった。「でも呪いながら機を織っていたら、ある夜、父の教えてくれた染め方を思い出したんです。藍は、何度も何度も染め重ねることで、初めて深い色になる。一度で決まる色などない、って。そう言っていた」
黄仁は黙って聞いた。
「怒りも悲しみも、全部染め重ねたら、今の私になりました。あなたを憎むことも、その一色です。でも今は、それよりずっと深い色になっていると思っています」
黄仁の喉の奥で、何かがひっかかった。涙ではなかった。何かもっと形のないもの、長年飲み込んできた言葉の残骸が、出口を探しているような感触だった。
「俺は」
声が掠れた。
「俺は、自分を許せない」
それだけだった。続く言葉を探したが、何もなかった。嘘の才能を持っていた男が、真実を告げようとして、これほどまでに言葉を持たないとは。黄仁は初めて知った。真実とは、こんなにも貧しいものなのか。こんなにも、剥き出しで、みすぼらしく、それでいて重いものなのか。
蓮がゆっくりと首を振った。
「それは、私が赦す話ではないですね」
「わかってる」
「でも来てくれた。それは受け取ります」
黄仁は茶を一口飲んだ。味がよくわからなかった。ただ熱かった。その熱さだけが、今の黄仁にはありがたかった。
*
帰り道、黄仁は坂を降りながら、継ぎ接ぎ市場のことを考えた。
嘘の才能を売り払ったとき、無名はこう言った。「何かを手放すとき、人は軽くなると思っている。だが大抵の場合、手放した分だけ重くなる。それが本物の取引というものだ」
黄仁はあのとき、その言葉を半分しか信じていなかった。
今は全部信じる。
嘘の才能を失って、黄仁は軽くなるどころか、ずっと重かった。謝罪の言葉ひとつ、真っ直ぐに伝えられなかった。蓮はすでに許していた。それなのに黄仁は、真実を告げる勇気という、市場では絶対に買えないものの重さを、今はじめて自分の手のひらで測っていた。
坂の中腹で、藍色の布がまだ揺れていた。
黄仁はその布を見て、立ち止まった。風が変わった気がした。潮の匂いに混じって、何か別の気配が漂っている。甘くはなく、鋭くもなく、ただ静かに存在を主張する匂い。
振り返ると、路地の陰に人影があった。
外套を纏った、背の高い人影。
千斗が追い続けていた、あの男だった。
男は黄仁を見て、動かなかった。黄仁も動けなかった。男の顔は外套の襟に隠れてよく見えないが、その立ち姿には見覚えがあった。どこかで、確かに会っている。
だがどこで。
男がゆっくりと右手を上げた。何かを黄仁に示すように、指先を坂の上へ向ける。蓮の家の方角だった。
黄仁の背筋に、冷たいものが走った。
嘘つきだったころの黄仁なら、笑って言い逃れしていた。真実しか持たない今の黄仁には、その指先が指す意味が、痛いほど直截に伝わってきた。
男は何かを知っている。蓮のことを。そして黄仁がここへ来たことを。
それはつまり、白榊糸子も知っているかもしれないということだ。
黄仁は口を引き結んだ。坂の石畳が、足の裏から冷えていくような気がした。