港の夜は、潮の匂いから始まる。
塩と魚と、腐れかけた木材の臭気。そこに混じる炭火の煙と、安酒の甘ったるい発酵臭。「波止場の月」という名の小さな酒場は、漁師と荷担ぎと、行き場を失った者たちが肩を寄せ合う場所だった。吊るされた提灯が風に揺れるたび、店内の影が生き物のように伸び縮みする。
澪がその店の暖簾をくぐったのは、ただ歩き疲れたからだった。
夢から覚めた朝から、ずっと歩いていた。港の突堤に出て、海を見て、冬哉の顔を思い浮かべようとして——そして気づいた。輪郭が、薄い。すでに売り払った記憶たちが、その周縁をじわじわと浸食している。それでも消えずに残っているのは、冬哉の声の調子でも笑い方でもなく、彼に見つめられたときの自分の胸の内側の感覚だけだった。熱を持ったような、苦しいような、それでいて安堵するような——名前のつけられない感覚。
その感覚だけが、澪の中に最後の断片として残されていた。
一番端の席に腰を下ろして、澪は熱燗を一本頼んだ。盃に口をつけながら店内をぼんやりと眺めると、先客が二人いた。
一人は、細身の少年だった。十七か十八か、そのあたりの年頃。卓上に小さな帳面を広げ、毛筆ではなく鉛の棒で何かを書いている。時折、手を止めて窓の外の暗い海を見つめる。その横顔に、澪は理由のない既視感を覚えた。
もう一人は——壮年の男だった。
上等とも粗末ともつかない青みがかった衣を羽織り、卓の上に大ぶりの杯を置いて、じっと酒を見ている。飲んでいるのか、眺めているのか、どちらとも判断できない。顔つきは人好きのする柔らかさを持っているが、その目の奥には澪が見知っているものがあった。何かを値踏みするような、商人の目。
男が先に気づいて、澪のほうを向いた。
「よい夜ですな」と彼は言った。「こんな夜に一人酒をする方は、たいてい海に何かを落としてきたあとです」
澪は返事をしなかった。男はそれを気にした様子もなく、「黄仁と申します。薬種商をしております」と続けた。薬種商。澪は心の中でその言葉を転がした。嘘ではないかもしれない。しかし全部でもない——そういう種類の自己紹介だと、直感でわかった。
少年のほうは、二人のやり取りを横目で追っていた。澪と目が合うと、帳面を取り上げ、鉛の棒で何かを書いてこちらに差し出した。
〈はじめまして〉
短い文字が、帳面の白いページに並んでいた。
「声が出ないのですか」と黄仁が問うと、少年は小さく頷いた。躊躇いなく頷く。その素直さに、澪は少し驚いた。隠していない。欠落を、恥だと思っていない。
澪は自分の盃を少年の卓のほうへ向けて持ち上げた。挨拶の代わりに。少年は目を丸くして、それからかすかに笑った。
「あなたも、市場へ行く人ですか」
澪の口からその言葉が出たのは、ほとんど無意識だった。自分でも驚いて、しかしもう引っ込めることもできなかった。「継ぎ接ぎ市場」の名前を出したわけではない。ただ「市場」とだけ言った。それで十分だった。
黄仁の手が、杯の上で止まった。
少年の鉛の棒が、帳面の上で止まった。
三人の間に、一瞬の静寂が落ちた。潮騒だけが外から聞こえ続けた。
それから黄仁が、ゆっくりと微笑んだ。先ほどの人好きのする表情とは異なる、もっと素のものだった。
「やはり、おわかりになりましたか」
「わかるものです」と澪は言った。「同じ場所を知っている人間には、同じ匂いがします」
少年が帳面に書いた。〈ぼくも、行っています。三回目です〉
「三回目」と黄仁が繰り返した。「若いのに、よく市場に入れましたな。あそこは、相応の欠落を持つ者しか入れない」
少年は一拍置いてから、また書いた。〈声を、売りました。最初に〉
静かな告白だった。それを受け取った澪の胸に、痛みに似た共鳴が走った。最初に売ったのは声。それほどのものを対価に差し出して、少年は何を求めたのだろう。
「私も、ずいぶんと売ってきました」と澪は言った。誰に向かって言っているのか、自分でもわからなかった。「夫の記憶を。少しずつ、少しずつ」
黄仁は何も言わなかった。しかしその目が、細くなった。同情ではなく、何か別のもの——理解に近い、しかし理解とも微妙に異なる感情。
「あなたは」と澪は黄仁に問いかけた。「何を売り、何を求めているのですか」
黄仁は答える前に、杯の酒をひとくち飲んだ。
「私は」と彼はゆっくり言った。「嘘をついてよいですか」
澪は首を傾けた。「なぜわざわざ断るのですか」
「正直に嘘をつきたい性分でして」黄仁はどこか困ったように笑った。「薬種商というのは、まあ、当たらずといえども遠からずでしてね。売り買いの仲立ちをする仕事ではあります。ただし扱うのは薬ではなく、もっと曖昧なものだ」
「曖昧なもの」
「人が手放せないでいるものを、手放させる手助けをする。そういう仕事です。もっとも、いつも上手くいくとは限らない」
少年が帳面に書いた。〈あなたも、欠落があるのですか〉
黄仁は少年を見て、それから窓の外を見た。
「あると言えばある。ないと言えばない」彼は曖昧に言った。「私の欠落は、私が売ったものとは少し違う形をしている」
それ以上は話さなかった。澪もそれ以上は聞かなかった。
店の奥で炭が爆ぜた。提灯が揺れた。三人はしばらく黙って、各々の盃と、帳面と、窓の外を眺めた。
しかしその沈黙は、先ほどの緊張した静寂とは違うものになっていた。澪はそれに気づいて、胸の奥でわずかに息をした。人と同じ場所に座っているというだけのことが、こんなに違う感触をもたらすとは思っていなかった。孤独は、名前のついていないうちは孤独と気づかない。名前のついた孤独と同じ空間にいる者と出会ってはじめて、それが孤独だったと知る。
「次の市場は」と澪は言った。「もう近い」
「ええ」と黄仁が頷いた。
少年も頷いた。
「あなたがたは、次の市場で何を持っていくつもりですか」
黄仁はまた「嘘をついてよいですか」と言いかけて、やめた。「持っていくものは、まだ決まっていません。しかし、手放さなければならないものは——たぶんわかっています」
少年は帳面に、少し時間をかけて書いた。〈ぼくは、調べたいことがあります。市場で起きていることの、正体を〉
「正体?」と澪が問い返すと、少年は続けた。〈市場を壊そうとしている人がいます。監査官と名乗る老婆です〉
その言葉に、黄仁の顔がわずかに動いた。澪は見逃さなかった。
「知っているのですか」と澪は黄仁に向いた。
「知っている名前が、ひとつあります」と彼は言った。「白榊という」
少年が帳面に素早く書いた。〈その人です〉
また沈黙。しかしこれは先ほどとも違う種類の沈黙だった。三人の間に、何か薄い糸のようなものが張られた感覚を、澪は感じた。利害でも義務でもない、もっと頼りない、しかしたしかに存在する繋がり。
「次の市場の夜」と澪は言った。「あなたがたも、来ますね」
問いかけの形をした確認だった。黄仁は「来ます」と答えた。少年は帳面に〈行きます〉と書いた。
「では」と澪は言って、盃を持ち上げた。「またその夜に」
三人は名前も素性も欠落の深さも語り合わなかった。それでも盃と帳面と目配せだけで、何かを確かめ合った。
店を出るとき、澪は振り返らなかった。波止場の夜風が、鬢の毛を揺らした。
胸の中に最後の断片が、まだかすかに熱を帯びたまま残っている。
そしてその夜、澪が知らないところで、波止場の端に立つ〈無名〉の横に、縹の幽影がそっと寄り添っていた。彼は何も言わなかった。縹も何も言わなかった。ただ二人は、遠く酒場の灯が揺れるのを、じっと見ていた。
満月まで、あと三日だった。