潮が引いた後の浜辺には、決まって細かな貝殻が残る。波に運ばれてきたものか、それとも波に運ばれていけなかったものか、澪にはいつも判断がつかなかった。

 継ぎ接ぎ市場の外れ、石畳の途切れたあたりに木製の縁台がひとつ置かれている。誰のものでもなく、誰でも腰を下ろしてよいと、暗黙のうちに了解されている場所だ。澪は今夜もそこに座って、膝の上に広げた古い手拭いを眺めていた。

 手拭いは夫の遺品ではない。夫が使っていたものはとうの昔に売り払った。記憶の中の夫が使っていたと、かつては思い出せた手拭いの模様も、今ではただの藍染めの格子にしか見えない。売ってしまったのだ。「これが夫の好きだった柄だ」という感覚ごと、市場のどこかの棚に並べてしまった。

 そうして澪は長い年月をかけ、夫との記憶を少しずつ削り取ってきた。結婚した日の空の色。初めて喧嘩をした夜の、冷たい廊下の感触。夫が好きだった煮魚の匂い。笑うときに目尻に寄る皺の数。どれもかつては宝石のように輝いていたはずのものが、気づけば澪の内側から消えていた。

 残っているのは、ひとつだけだった。

 夫が最後に言った言葉。

 それだけが、まるで砂の中に埋まった石のように、何年経っても、何を売り払っても、澪の奥底から動かなかった。

 病床の夫は、それほど大きな声は出せなかった。かすれていて、途切れ途切れで、澪は耳を夫の唇のすぐそばまで近づけなければならなかった。その近さで感じた、薬と汗のまじった体の温もり。それも今となっては記憶ではなく、ただの想像かもしれない。体の感覚は随分前に売ってしまった気がするから。

 でも声だけは、残っている。

 澪は目を閉じる。

 波音が遠く聞こえる。継ぎ接ぎ市場の喧騒が、夜の空気の中でくぐもって聞こえる。それらを全部遠ざけるようにして、澪は内側へと降りていく。

 ——澪。

 夫の声が、聞こえる。

 掠れていて、でも確かに自分の名前を呼んでいる。あの声だ。他の誰とも違う、紙のように薄くなっていたけれど、それでも確かに彼の声だった。

 ——おまえは、きれいだよ。

 ただ、それだけだった。

 病床で、やつれ果てた妻の手を握って、夫はそう言った。澪は当時、涙をこらえることができなかった。きれいなわけがない、と思った。自分では泣きすぎて目が腫れ、碌に眠れていないことも分かっていた。なのに夫はそう言った。嘘でも慰めでもなく、ただ事実を告げるような、穏やかな声で。

 それが最後の言葉だった。

 夫はその翌朝、澪が少し眠っている間に、ひとりで逝ってしまった。

 縁台の木目を、澪は人差し指でなぞった。溝に沿って指を動かしながら、考える。この記憶を売ったら、いくらになるだろう。市場では「強度の高い感情」ほど高値がつくと、〈無名〉が以前に言っていた。ならば澪が今持っている最後の記憶は、きっと相当な値がつくはずだ。

 だが何を買い戻せるというのか。

 澪は静かに首を振った。売り払った記憶のほとんどは、もはや市場のどの棚にもない。別の客が買っていったのか、あるいは市場の奥に蓄積されているのか——千斗が言っていたことを思い出した。市場は蓄積装置だと、あの無口な少年は筆談で澪に教えてくれた。才能も記憶も、市場の外には出ていかない。

 では澪が売った夫との記憶は、今も市場のどこかに存在しているのだろうか。

 その問いが、胸の中で静かに燃え始めた。

 「お座りになっても?」

 声をかけられて澪は顔を上げた。縹だった。市場にだけ存在するという少女の幽影が、青みがかった光の中で澪の傍らに立っていた。相変わらず何も言わず、ただそこにいる。澪が頷くと、縹は音もなく縁台の端に腰を下ろした。

 二人でしばらく黙って、遠くの波音を聞いた。

 「あなたは怖くないの」と澪は言った。縹に向けて言ったのか、自分に向けて言ったのか、自分でも分からなかった。「何もかも、なくなってしまうことが」

 縹は答えない。ただその目が、澪の方をそっと向いた。

 その目に映る自分はどんな顔をしているだろう、と澪は思った。売れるものを全部売り払って、それでも手放せないものを抱えている女の顔。滑稽だろうか。惨めだろうか。

 ——おまえは、きれいだよ。

 夫の声が、またどこかで鳴った。

 澪は唇を結んだ。この声だけは売らない、と思う。何百回目かの決意だった。市場に来るたびに、この記憶だけは手放さないと誓う。なのに毎回、足が無名の露店の方へと向く。毎回、迷う。

 ——迷っているのは、本当は怖いからではないか。

 夫の最後の言葉を売ってしまったら、夫が完全に消える、と思っている。名前も声も匂いも顔の細部も、もう残っていない。残っているのはあの言葉だけだ。それを売れば、夫はただの「かつていた人」になる。澪にとって、夫は「いなくなった人」ではなく「売り払ってしまった人」になる。

 それが怖かった。

 縹がふいに、細い指で膝の上の手拭いに触れた。触れた、というより、触れようとした。指先が手拭いをすり抜けて、縹は何事もなかったようにその手を引いた。幽影である縹は、物に触れることができない。分かっていたのに試みたその仕草が、澪にはなぜか胸に刺さった。

 欲しくても、触れられないもの。

 澪はゆっくりと息を吸った。

 「地図を作ろうと思う」

 呟きが夜に溶けた。縹が小首をかしげた。

 「売ってしまった記憶の、地図。何を売ったか、どこへ行ったか、分かる範囲で書き留めておく。夫のことだけじゃなくて、自分が何を手放してきたか。全部」

 言葉にした途端、それが正しいことのように感じた。市場に来るたびに「取り戻したい」と思ってきたけれど、本当に取り戻せるものなど何もないのかもしれない。ならばせめて、自分がどれだけのものを手放してきたか、きちんと記録に残しておきたかった。欠落の輪郭を、自分の手で描きたかった。

 輪郭があれば、少なくともその形が分かる。

 形が分かれば、そこにかつて何があったかを、想像することはできる。

 「記憶そのものはなくても、欠けた場所だけは残る。それが、夫との時間の証明になるんじゃないかと思って」

 縹は何も言わない。でも澪の言葉を聞いていた。確かに聞いていた。

 風が吹いて、澪の髪を揺らした。市場の向こうから、誰かが値段を交渉する声が聞こえた。ここでは毎夜、何かが手放され、何かが渡されていく。

 澪は膝の上の手拭いを丁寧に畳んだ。袖の中にしまって、立ち上がった。縹が音もなく傍らに並んだ。

 「最後の記憶は、まだ売らない」

 そう言って澪は歩き出した。しかし歩きながら、心の奥に引っかかりが残るのを感じていた。欠落の地図を作ることは決めた。でも地図を描き終えた時、自分はどうするのだろう。

 全ての欠落の輪郭をなぞり終えた時、澪はその地図を手に、また市場に来るのだろうか。

 そしてその時、まだ——あの声を、胸の中に持っていられるだろうか。

 答えは出なかった。出るはずもなかった。

 縹の青白い光だけが、澪の影を石畳の上に淡く落とし続けていた。

真夜中の継ぎ接ぎ市場と、名前のない商人

24

澪の最後の記憶

藍田 夜子

2026-06-06

前の話
第24話 澪の最後の記憶 - 真夜中の継ぎ接ぎ市場と、名前のない商人 | 福神漬出版