霧は薄れることなく、むしろ港の石畳から染み出すように濃くなっていた。
澪と千斗が踏み込んだ継ぎ接ぎ市場は、あの百年の夜とは少しだけ異なる表情をしていた。屋台の布は半分めくれたまま止まり、提灯の炎は揺れることなく宙に固定されている。時間が途中で息を止めたような、奇妙な静けさだった。縹が消えてからすでに半刻ほどが経ち、二人は思い思いに市場の内部を歩き回っていた。
千斗が最初に気づいた。
路地の突き当たり、積み上げられた行李と磁器の欠片に囲まれた小さな空間に、誰かが立っていた。
男だった。年齢を推し量ることができない。若くも老いてもなく、ただそこに在るというような佇まいで、手元の秤をいじりながら千斗の方を見ていた。視線が合った瞬間、千斗の足が止まる。目だ、と思った。笑みを浮かべているのに、その目だけが笑っていない。深い場所から滲み出るような悲しみが、ひどく場違いにそこにあった。
「やあ」
男が言った。
「久しぶりだね、と言いたいところだけれど、私たちは初めてだね。あなたが千斗くんか」
千斗は懐から手帳を取り出した。短い問いを書いて、差し出す。
『あなたが無名か』
「名前はないよ」男は手帳を一瞥して、穏やかに答えた。「だから無名。便宜上そう呼んでいる人もいるし、そう呼ばれることに異存はない。でも正式には、名前がないんだ。それが最初の取引だったから」
千斗はその答えを手帳の端に書き留めた。几帳面な文字で、日付と場所も添えて。その動作を無名は興味深そうに眺めていた。
「調査しているんだね」
断定する口調だった。千斗は頷く。
「何を調べているか、聞いてもいいかい」
千斗は少し間を置いてから書いた。
『市場の異変。百年周期が乱れている理由。あと、この市場が本当は何のためにあるのかを』
無名は手帳の文字を読み、にっこりと笑った。その笑みは確かに柔らかいのに、目の奥の暗い水面は揺れないままだった。
「最後の一行が面白いね」彼は言った。「市場の本当の目的、か」
千斗は頷いて、ペンを持ち直す。
『商人なら知っているはずだ。市場は何のためにある』
「商人だから知っているとは限らない」無名は涼しい顔で答えた。「漁師が海の目的を知らないように、私はただここで商売をしているだけかもしれない」
『それは答えをはぐらかしている』
「鋭いね」
無名は秤を棚に置いた。石畳の上に腰を下ろし、千斗を見上げるような形になる。
「じゃあ、こう言おうか」彼はゆっくりと言葉を選んだ。「私には、あなたの問いに答える義務がない。でも、答えたいという気持ちはある。ただし、ただで話すのは商人の矜持に反する」
千斗の眉が、わずかに動いた。
「取引しよう」無名は続けた。その声に、からかいとは少し違う、本気の色が混じっていた。「あなたが知りたいことを私は話す。私が知りたいことをあなたは売る。それが市場のやり方だ」
『あなたが知りたいこと』
「あなたの調査記録だよ」
千斗の手が、手帳の上で止まった。
「今あなたが持っているその手帳と、その前の記録全部。あなたがこれまで集めた市場についての観察と、仮説と、おそらく誰にも話していない推論。それを売ってほしい」
千斗はしばらく動かなかった。風もない市場の中で、止まったままの提灯の炎だけが、ぼんやりと二人を照らしていた。
『なぜそれを欲しがる』
「知りたいんだ」無名は静かに言った。「あなたの目には、この市場がどう見えているか。百年をかけてずっとここにいる私には、もう見えなくなっているものが、あなたには見えているかもしれない」
その言葉は、千斗が予想していたものと全く違った。
商人が客の持つものを欲しがるのは当然だ。しかし無名の言い方は、駆け引きでも脅しでもなく、どこか切実な響きを帯びていた。百年をかけてずっとここにいる私、という一節が、千斗の中でわずかに引っかかる。
『取引に応じたとして、代価は何だ』
「市場の目的を話す」
『それだけか』
「それだけ、というのは少し違う」無名は首を傾けた。「私が知っていることを話す。ただし、私が知っていることが全てではないかもしれない。市場には、私でも見えていない部分がある」
千斗は手帳を一度胸に引き寄せてから、また開いた。
『声を失った代わりに、俺は観察する力を得たと思っている。それが俺の記録だ。売ったら、それを失う可能性がある』
「その問いは鋭い」無名は少し眉を上げた。「正直に答えるよ。記録そのものを売った場合、その記録から生まれた思考は残る。でも、記録を見返すことで生まれるはずだった新しい気づきは、もう生まれない。あなたが今まで書いてきたものは、あなたの中にある過去になる。更新されない地図になる、と言えばいいかな」
千斗はそれを読んで、少しの間、目を閉じた。
声を売った夜のことを思い出す。病の床で、声以外の全てを失うか、声だけを失うかという瀬戸際で、彼は選んだ。その取引の意味を、千斗はまだ完全には理解していなかった。ただ、手放したものの重さは、今も喉の奥の空白として残っている。
目を開けると、無名が静かにこちらを見ていた。急かす様子もなく、ただ待っていた。
『一つだけ聞かせてほしい』
「どうぞ」
『縹は何者だ。あなたと何の関係がある』
はじめて、無名の表情が揺れた。
微妙な変化だった。笑みが消えたわけではない。しかし目の奥の暗い水が、ほんの少しだけ波打った。それを千斗は見逃さなかった。
「それは」無名は少し間を置いた。「今夜の取引の範囲外だ」
『なぜ』
「答えられないから、ではない。答えるには、今夜の時間と対価では足りない」
千斗は手帳にその言葉を書き留めた。無名は止めなかった。
「書いていいよ」彼は穏やかに言った。「私は隠しているわけじゃない。ただ、縹のことを話すには、百年前から話さなければならない。今夜の市場は半開きだ。そんな長い話をする場所じゃない」
千斗は一瞬考えてから、手帳の新しいページを開いた。
そこに、今夜書いた観察の一部を書き写し始めた。市場の提灯の様子、霧の質、縹が現れた方角、石畳の温度が妙に低かったこと、そして百年の夜とは異なる市場の「止まった感覚」。丁寧に、しかし必要な情報だけを選んで。
無名はそれを黙って見ていた。
千斗がページを破いて差し出すと、無名はそれを受け取り、一度だけ丁寧に折り畳んだ。懐にしまう前に、もう一度だけ目を落として読んだ。その視線の動き方が、千斗には妙に印象的だった。商人が商品を確かめる目ではなく、渇いた喉が水を求めるような、そういう読み方だった。
「ありがとう」無名は言った。「では、約束を果たそう」
彼は立ち上がった。提灯の止まった光の中で、その輪郭がわずかに曖昧に見えた。
「市場はね、千斗くん」無名は言った。「交換の場所であることは正しい。でも最初の目的は、そうじゃなかった」
千斗は書く手を止めて、顔を上げた。
「最初は、手放せないものを手放すための場所だった。失うことが怖くて、でも持ち続けることも苦しくて、その両方の間で身動きが取れなくなった人間が、誰かに預けることができる場所。市場は倉庫だったんだよ、最初は」
千斗の目が、かすかに見開かれる。
「それが何百年かのうちに、預けたものが商品になり、売り買いが始まった。最初の目的を知っている者は、もうほとんどいない。私が知っているのは、百年前にその話を聞いた人間がいたからだ」
『誰から聞いた』
「それを話すのも、まだ今夜の対価じゃない」無名は微笑んだ。「でも、次の市場の夜には話せるかもしれない」
千斗は手帳に全てを書き留めながら、無名の目を見ていた。
暗い水面は、また静かになっていた。しかし先ほどよりも、わずかに浅く見えた。気のせいかもしれない。しかし千斗は、その変化を記録した。
路地の奥から、澪の足音が近づいてきた。
無名は澪に気づくと、軽く手を挙げた。まるで古い知人に挨拶するように。千斗はその自然な動作を見て、二人の間にある時間の厚みを、ぼんやりと想像した。
半開きの市場は、まだ閉じていなかった。
しかし霧の向こうで、何かが動き始めているような、微かな気配があった。千斗は振り返りたい衝動を抑えながら、次の問いを手帳に書き記した。市場が倉庫だったなら、最初に何かを預けた人間は誰なのか。そして、その人間はまだここにいるのか。
ペンを握る指先が、止まらなかった。