市場には、昼も夜もない。
継ぎ接ぎ市場とはそういう場所だ、と千斗はこの数週間で学んでいた。大潮の満月が天頂に達したとき路地の狭間に口を開き、潮が引くと同時に霧のなかへ溶けてゆく。けれどその内側では時が独自の呼吸をしており、外の世界で一刻が過ぎるあいだに、市場では半日ぶんの事が起こることもあれば、逆に夜明けまで同じ瞬間が引き延ばされたように感じることもある。千斗には声がない。だから余計に、時の粒を皮膚で数えるような感覚が研ぎ澄まされていた。
その夜、千斗が市場に入ったのは調べ物のためだった。
白榊糸子が動いている。
老婆が訪問者のひとりひとりに囁きかけ、取引の「無効」を吹き込もうとしていることは、千斗の手話を読める数少ない知人から断片的に教えてもらっていた。糸子は市場の封鎖を目論んでいる。では市場を封じるためには何が必要か。千斗の仮説は単純だった——記録を奪うことだ。
取引には証拠が要る。証拠が消えれば取引は宙に浮く。
だとすれば、市場には記録が存在するはずだった。
千斗は手の平に墨で「記録」と書き、それを握りしめながら市場の奥へと歩いた。
市場の中心には噴水がある、というよりも、かつて噴水だったと思しき石の台座がある。水は出ておらず、その縁に干からびた苔が薄く張り付いているだけだ。千斗はいつもそこを起点に市場を歩いた。右に折れれば香具師の並ぶ露店通り。左に折れれば飲み物と引き換えに悩みを売る茶屋が三軒。正面の細い路地を抜けると、取引の仲介をする商人たちの区画に出る。
だが今夜、千斗は四つ目の方向を選んだ。
台座の背後、普段は人が通らない暗がり。屋台の灯が届かず、香の煙だけが靄のように漂っている。千斗は市場に通うたびにそこへ視線を送っていたが、これまで一度も足を踏み入れたことがなかった。理由を問われれば答えに詰まる。怖かった、というより、何かが「まだ来るな」と告げているような気がしたのだ。
今夜はその感覚がなかった。
暗がりに踏み込むと、足元の石畳が変わった。市場の大部分は赤みがかった古い石が敷かれているが、ここだけは青みを帯びた薄い板石で、踏むたびに微かに沈む。まるで水の上を歩いているようだった。
十歩ほど進んだところで、千斗は立ち止まった。
小さな卓がある。
卓の前に、人が座っている。
人、と呼んでいいのかどうか、千斗には判断がつかなかった。その人物は市場に似つかわしい古めかしい衣を纏い、顔には白い布が巻かれていた。目も口も隠されているのに、存在の輪郭だけがひどく鮮明だ。右手には細い筆を持ち、左手は帳簿の端を押さえている。千斗が近づいても、その人物は顔を上げなかった。筆だけが動き続けた。
千斗は息を詰めて、卓の端から帳簿を覗き込んだ。
そこに書かれているのは文字だった。けれど、千斗が知っているどの文字とも似ていない。縦横斜めに走る細い線が、まるで生き物の爪痕のように帳簿を埋め尽くしている。読めない。だが確かに何かを記している、という実感だけが、ひどくはっきりとあった。
千斗は手の甲に「これは何を記しているのか」と書き、卓の上に差し出した。
記録係は筆を止めなかった。ただ左手が、帳簿の端から静かに離れた。
それが「見ていい」という合図だったのか、千斗にはわからない。けれど帳簿は、ひとりでに最初のページへと開いた。
千斗の喉が、音のない悲鳴を上げた。
最初のページには、他のページとは異なる文字が記されていた。古い、おそらく市場が生まれた頃と同じくらい古い文体で、けれど不思議と読めた。まるで最初から読めるように書かれているかのように。
左の列に、売ったもの。
右の列に、買ったもの。
そして中央に、取引をした者の名。
左の列には、たった一語が書かれていた。
——名前。
右の列にも、たった一語。
——永遠の商人権。
中央の欄だけが、白かった。
白い、というより、消えていた。墨の染みすら残っていない。そこにはかつて何かが書かれていたはずなのに、まるで最初から空白だったかのように、その場所だけが静かに欠けていた。
千斗は帳簿から目を離せなかった。
永遠の商人権、という言葉が、胸の奥でゆっくりと溶けていく。市場が百年に一度しか現れないとすれば、商人として市場に立ち続けるためには、市場が存在しない時間を——百年間を——どこかで過ごさなければならない。その「どこか」とは何か。現世か。それとも市場の外側に広がる、千斗がまだ名前を知らない場所か。
名前を売って手に入れた権利が、永遠の商人権。
ならばその人物は、名前がない。
千斗の脳裏に、飄々とした横顔が浮かんだ。深い悲しみを帯びた、暗い目が浮かんだ。
——〈無名〉。
帳簿が、音もなく閉じた。
記録係の筆が、再び動き始めた。まるで「見ていい時間は終わった」と告げるように。千斗は一歩後ずさり、二歩後ずさり、ようやく石畳の感触が赤みがかったものに変わったところで、ひとつ深く息を吸った。
市場の灯が、遠くで揺れている。
香の煙が鼻をついた。千斗は自分の手の平を見た。「記録」という墨の文字は、汗でほとんど滲んでいた。それでもその二文字だけが、妙にくっきりと残っていた。
記録は、存在する。
では糸子は、あの帳簿を狙っているのか。あるいは帳簿の最初のページを——名無しの商人の、消えた名前を——狙っているのか。
千斗は市場の中心へ戻りながら、考え続けた。名前を売った人間は、取り戻せるのだろうか。帳簿の空白は、返却の余白なのか。それとも消去の跡なのか。
石台座の縁に手をついて、千斗はしばらくそこに立った。干からびた苔が指先に触れた。ざらりと乾いた、古いものの感触だった。
市場のどこかで、鈴の音がした。
細く、遠く、まるで眠りの中で聞く音のように。
千斗は顔を上げた。人波の向こうに、縹色の衣が翻るのが見えた気がした。見えた気がした、だけで、次の瞬間にはもう何もない。香の煙と、揺れる灯と、売り買いの声が重なり合う市場の夜があるだけだ。
だが千斗は確信していた。
あの帳簿の空白は、誰かを待っている。
そしてそれを待たせているのは、名前を持たないまま百年を商い続けた人物だ。
千斗は懐から小さな手帳を取り出した。筆談のために常に持ち歩いているそれに、今夜見たことを書き留めた。震える文字で、それでも一字一字丁寧に。
書き終えて、手帳を閉じる。
その拍子に、手帳の表紙に貼り付いていた一枚の紙がひらりと落ちた。拾い上げると、千斗自身が書いた文字ではなかった。見知らぬ細い筆致で、たった一行。
——帳簿は、空白のうちは閉じない。
千斗は長い時間、その一行を見つめた。
風が吹いた。市場の灯が一斉に揺れた。まるで市場全体が、息を吸い込んだかのように。
帳簿は、閉じていない。
つまり——まだ、取引の途中だ。
百年前に始まった取引が、まだ終わっていない。
千斗は紙を握りしめ、市場の出口を目指して歩き出した。夜明けまでに、澪に伝えなければならないことがある。そして澪を通じて、あの商人にも。
背後で、静かに筆が動く音がした。
千斗には聞こえない。けれどその夜、市場の記録係は帳簿に一行だけ書き足した。
読める者だけが読める文字で。
——目撃者、現れる。