潮の匂いがする夜だった。
千斗は市場の外縁に沿って歩きながら、小さな手帳に観察記録を書き付けていた。十七年間生きてきて、彼はとうの昔に覚えた。声を持たないということは、世界から半歩引いた場所に立つということだ。誰もが喋り、笑い、叫ぶ中で、自分だけが静かに立っている。その静けさは孤独であると同時に、特権でもあった。人は声を持たない者の観察など気にしない。
継ぎ接ぎ市場は、初めて来た者を必ず迷わせる。
それは千斗の調べた文書にも書いてあった。百年前の記録、そのまた前の記録、墨が褪せた紙の束。港町の古い蔵に眠っていたそれらを千斗は三年かけて読み解いた。声の代わりに時間を使う。それが彼の生き方だった。
市場の構造は、一見すると無秩序に見える。
露店が群れ、吊り提灯が揺れ、見知らぬ者たちが何かを手渡し合っている。だが千斗の目には、その混沌の中に微細な法則が透けて見えた。商人たちは決して隣り合わない。それぞれの店の間には、目に見えない間隔が保たれている。まるで磁石の同極同士が反発するように、近づきすぎることを本能的に避けている。
なぜか。
千斗は手帳に書いた。【取引の干渉を防ぐため? それとも、商品の性質が影響し合うから?】
記憶を売る者の隣に感情を売る者がいれば、商品が混濁する。そういうことかもしれない。見えないものを売り買いするならば、それは当然の用心だろう。
千斗は足を止めた。
一軒の露店が、他と少し異なる構えをしていた。
天幕の布は深い藍色で、そこに白い糸で無数の文字が縫い付けられている。近づいてよく見ると、文字ではなく、人の名前だった。名前が、びっしりと。端から端まで、数えきれないほどの名前が白い糸で布に刻まれていた。
店主は初老の女だった。丸い眼鏡をかけ、指先が奇妙に長く、手の甲の皮膚が紙のように薄い。彼女は千斗が近づくのを見て、眼鏡の奥の目を細めた。
「お客さんかい」
千斗は首を振り、手帳を開いて見せた。
【調べているだけです。あなたの店は何を扱っていますか】
女は少し間を置いてから、ゆっくりと答えた。
「記憶屋だよ。売られた記憶を仕入れて、欲しい者に売る。古物商みたいなものさ」
千斗は手帳に素早く書いた。
【売られた記憶は変質すると聞きました。変質した記憶に、買い手がつくのですか】
「変質するから価値が出る、ということもある」女は指先で天幕の布を撫でた。「元の持ち主にとっては歪んだものでも、別の者にとっては宝になる。悲しみが消えて甘さだけ残った記憶を欲しがる者は多いよ。人というのは、苦みを取り除いた思い出を求めるものだから」
千斗は眉を寄せた。それは記憶と呼べるのか。苦みを取り除いた思い出は、もはや別の何かではないのか。
【それは偽物の記憶では】
「偽物と本物の境界は、誰が決めるんだい」
女の声は穏やかだったが、その穏やかさの奥に何か鋭いものが潜んでいた。千斗はそれを感じ取った。問答に慣れている。この女は、問いかけに対する答えを長い時間をかけて磨いてきた人間だ。
【では聞き方を変えます。売られた記憶を本来の持ち主が買い戻した場合、その記憶は元に戻りますか】
「戻らない」
即答だった。
「売られた時点で記憶は持ち主から切り離される。切り離されたものは、時間の流れ方が変わる。ここは百年に一度しか開かない市場だ。市場の中での時間と、外の時間は違う。売られてからここで百年経った記憶は、外の時間で言えばほんの一刹那しか経っていないかもしれないし、逆に何百年も老いているかもしれない」
千斗は書くのを止めた。
頭の中で何かが引っかかった。
【では、今夜この市場で売られた記憶は、次に市場が開く百年後まで、ここに留まり続けるということですか】
「そうなるね」
【百年間、どこで】
「それは——」
女は初めて、わずかに躊躇した。
「市場の中だよ。市場の構造の中に、組み込まれる」
千斗は手帳に素早く書き続けた。
【市場の構造の中、というのは具体的にどういう意味ですか。物理的な場所があるのですか。それとも市場そのものが記憶を保管する器になっているということですか】
「……随分と詳しい質問をするね、声なしの坊や」
女の目が細くなった。今度は愛想のある細め方ではなく、値踏みするような細め方だった。
「あんた、何が目的でここに来た」
【真実を調べるために来ました】
「真実、ね」女は小さく笑った。「どんな真実を」
【この市場の取引に、無効になるべき取引が含まれているかどうか。そして、もしそうであれば、誰がそれを決定できるのか】
女はしばらく千斗を見つめてから、ゆっくりと口を開いた。
「お前さん、白榊の老婆に会ったことがあるかい」
千斗の手が止まった。
白榊糸子。監査官を名乗るあの老婆の名が、この記憶屋の口から出るとは思っていなかった。
【知っています】
「あの人は、取引の無効化を目論んでいる。お前さんはそれに加担しようとしているのかい。それとも、加担するふりをして別の目的があるのかい」
千斗は答えなかった。
答えを書くのではなく、逆に問いを書いた。
【あなたは白榊の味方ですか、敵ですか】
「どちらでもない」女は静かに言った。「私はただの商人だよ。取引が続く限り、ここに店を出し続ける。市場が封鎖されれば私の商売も終わる。だが市場が続いても、誰かが傷つき続けるなら、それも困る。どちらに転んでも、私は損をする」
その言葉は、千斗に奇妙なほどの真実味を感じさせた。
敵でも味方でもない者。ただ自分の場所で生きている者。千斗はそういう人間を信用する。立場のある者より、立場のない者の言葉の方が、往々にして正確だ。
【最後に一つだけ聞かせてください。この市場で最も古い取引は、何ですか】
女は長い沈黙の後、天幕の布に縫われた名前の群れをゆっくりと指でなぞった。
「名前だよ」
ぽつりと、言った。
「百年前に売られた名前。今も誰かに買われることなく、ここに在り続けている」
千斗は喉の奥で息を詰めた。声帯のない場所で、何かが震えた気がした。
名前を売った者。
無名、と呼ばれているあの商人のことを、千斗は思った。
その時だった。
視線を感じた。
背後からではない。斜め上から、だ。
千斗は振り返った。市場の外縁に積み重なった古い荷台の影、その上に誰かが立っていた。
少女、だった。
年の頃は十歳かそこら。着物は色を持たず、ただ淡い光を滲ませているように見えた。風が吹いても髪が揺れない。提灯の光が、その輪郭の上を素通りしていく。
影を持たない少女が、千斗をじっと見ていた。
目が合った。
千斗は動かなかった。少女も動かなかった。ただ二つの視線が、夜の空気の中で静かに触れ合った。
少女の目は、何の感情も映していないように見えた。だが千斗には、その目の奥の奥に、ひどく古い何かが沈んでいるように感じられた。悲しみとも郷愁とも違う、もっと根源的な何か。百年をひとりで過ごした者だけが持つ、静謐な疲労のようなもの。
縹、と千斗は手帳に書いた。声には出せないが、名前を書くことで何かを確かめようとするように。
少女は何も言わなかった。ただ、千斗が名前を書いたことに気づいたように、わずかに、ほんのわずかに、眉を動かした。
そして次の瞬間には、いなくなっていた。
荷台の上には誰もいない。残り香すらない。ただ夜の空気が、少し冷たくなったような気がした。
千斗は手帳を閉じた。
記憶屋の女も、少女が消えた場所を見ていた。その表情は読めなかった。驚いているのか、知っていたのか、あるいはそのどちらでもないのか。
「気をつけなさいよ、坊や」
女は静かに言った。
「あの子に見られた者は、大抵何かを失う羽目になる。あるいは——失ったことに、気づく羽目になる」
千斗は女を見た。女は既に視線を外し、天幕の布に縫われた無数の名前を眺めていた。
百年前の名前。まだ誰にも買われていない名前。
千斗は市場の中心へと歩き出した。手帳の最後のページに、一行だけ書き付けながら。
【縹は、何を知っている】
大潮の夜はまだ深く、市場は眠らない。