雪は、降るものだと思っていた。

 だが車窓の外に広がるそれは、もはや降っているとも積もっているとも言いがたかった。空と地面の境界が白く滲んで消え、遠くの山も近くの木々も、輪郭だけを残してすべてが同じ色に溶け込んでいた。バスが山道を登るたびに、世界はその密度を増してゆく。白瀬朔は額を窓ガラスに寄せ、外の気温が皮膚を通して頭蓋の奥まで沁み込んでくるような感覚をぼんやりと味わった。

 二月の終わり。本来であれば年度替わりの慌ただしさの中に埋もれているはずの時期に、朔は見知らぬ土地へ向かっていた。

 白妻村。

 地図アプリで検索しても、衛星写真は厚い雲に阻まれていた。役場のホームページは十年前から更新が止まり、村名を入力すると「白妻村 消えた村」「白妻村 異聞」などという検索候補が並んだ。前任の教師が体調不良で急遽退職したため、年度途中での赴任という変則的な形になったと、着任を告げる電話口で担当者は申し訳なさそうに言った。朔が「わかりました」と即答したのは、べつに勇敢だったからではない。ただ、行かない理由がどこにもなかっただけだ。

 バスの乗客は朔のほかに三人いたが、誰も口を開かなかった。老いた女が二人、前の座席にそれぞれひとつずつ座り、首を窓の外に向けたまま微動だにしない。もう一人は中年の男で、足元に大きな荷を置き、帽子を深く被って眠っているのか起きているのかわからない姿勢でいた。朔は荷棚に押し込んだ段ボール箱が気になって何度か振り返ったが、箱は揺れるたびにがたりと鳴くだけで、落ちる気配はなかった。

 バスが大きく揺れ、朔の身体が座席ごと浮いた。舗装が終わったのだと気づいたのは、そのとき窓の外に石造りの鳥居が見えたからだ。鳥居は傾き、注連縄の端が雪の中に埋まっていた。通り過ぎるほんの一瞬、朔は鳥居の奥に何かを見た気がした。白い、小さな、人の形をした何か。しかしバスはすでに通り過ぎており、振り返っても木々の影しか見えなかった。

 ――気のせいだ。

 朔は目を細め、自分にそう言い聞かせた。合理的に考えれば、雪と木の影と光の加減が作った錯視だ。教師になって三年、理科を担当してきた朔にはそれで十分な説明だった。

 バスが停車したのは、鳥居から十分ほど進んだ先だった。停留所の標識は雪の重みで地面と水平になっており、「白妻村 中央」という文字だけが辛うじて読めた。ドアが開くと、冷気が束になって車内に飛び込んできた。朔はコートの前を合わせ、荷を担いでステップを降りた。

 十数人の村人が、道の両側に立っていた。

 老若男女が、雪の中で整然と並んでいた。出迎えの列というよりは、何かの儀式の配列に近い印象だった。誰も拍手をせず、声も上げず、ただ一様に朔のほうを見ていた。視線が、妙に重かった。歓迎ではない。かといって敵意とも違う。朔はその感覚を言語化できないまま、とにかく会釈をした。

 列の中から一人の男が前に出た。四十代の半ばと思われる、肩幅の広い男だった。黒いダウンコートを着込み、口ひげをわずかに生やしている。整った面立ちだが、目に奇妙な深さがあった。

「白瀬先生ですね。綾部透と申します。村の総代を務めております」

 低く、よく通る声だった。朔は手を差し出し、男と握手を交わした。手のひらが、氷のように冷たかった。

「ようこそ、白妻村へ」

 透はそう言ったが、笑わなかった。背後の村人たちも、同じだった。

 朔はもう一度、全員に向かって頭を下げた。

「白瀬朔です。よろしくお願いします」

 沈黙が、応えた。

 教員住宅は分校の敷地の端、杉林に背を向けるように建っていた。二階建ての古い木造で、雪除けの板が一面を覆っている。引き戸を開けると、冷たい暗がりと、かすかな木の腐れた匂いが漂ってきた。透が「水道と暖房の使い方はこちらに」と書類の束を渡し、一礼して去った。他の村人たちも、ほとんど言葉を交わさないまま散っていった。

 朔は一人になった。

 暖房をつけ、段ボールを運び込み、とりあえず布団を敷いた。台所のガスコンロでお湯を沸かし、インスタントのコーヒーを飲みながら、居間の窓から外を見た。すでに四時を過ぎ、空は灰色から墨色へと変わりはじめていた。雪が、また降りはじめていた。村の明かりはまばらで、遠く見える家々の灯がどれも同じ色をしていた。橙でも黄でもない、ただ「明かり」とだけ呼ぶほかない、温度のない光。

 静かだった。

 東京にいた頃、朔はよく「静かな場所に行きたい」と思っていた。しかしこの静けさは、自分が想像していたものと根本的に違う気がした。音がないのではない。音を、何かが飲み込んでいるのだ。

 コーヒーを飲み終えて、朔は荷解きの続きをした。押し入れを開け、布団を確かめ、棚の状態を見た。前任者の忘れ物らしいものが棚にいくつか残っていたが、書き置きの類はなかった。一通り確認して押し入れを閉めようとしたとき、奥の隅に何かが引っかかった。

 手を伸ばすと、布の感触があった。

 引き出してみると、赤い布だった。いや、赤というより、一度は赤かったものが長い年月をかけて褪せた色だ。縮緬の生地に、金糸の刺繍が施されている。模様は花のようにも見えたが、朔にはそれが具体的に何の花か判断できなかった。布は手のひら二枚分ほどの大きさで、端がほつれており、中に何かを包んでいた形跡があった。

 朔はしばらく、その布を手の中で持ち直した。

 赤い布は、奇妙なくらい軽かった。それ自体が何かを失ったあとの抜け殻のように、ただ色と形だけが残っている。朔は布を持ったまま立ち上がり、窓の外へ視線を向けた。

 夜が来ていた。雪が降り続いていた。

 白瀬と白妻。

 朔はふと、二つの音が脳裏で重なる感覚を覚えた。偶然の一致だ、と思った。日本語には音の似た地名と苗字など、いくらでもある。合理的に考えれば、何の意味もない。

 それでも、その夜朔は長いこと布を手放せずにいた。

 窓の外で雪は降り続け、村の明かりが一つ、また一つと消えていった。最後の一つが消えたとき、白妻村は完全な暗闇の中に沈んだ。そしてその暗闇の奥から、朔には聞こえないはずの何かが、じっとこちらを見ているような気がした。

 赤い布が、指の間で冷たくなっていった。

花嫁人形と、溶けない雪の村

1

雪の果てへ

氷室 宵子

2026-05-14

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第1話 雪の果てへ - 花嫁人形と、溶けない雪の村 | 福神漬出版