雪は夜通し降り続けたようだった。
朝、教員住宅の引き戸を開けると、軒先まで白が迫っていた。昨日の足跡はすっかり消え、世界は一夜のうちに塗り替えられていた。朔は長靴に足を入れながら、東京では一度も使ったことのない動作を反復した。こういう土地で生きるということは、毎朝こうして雪を掘り起こすことから始まるのだ、とぼんやり思った。
白妻分校は、教員住宅から歩いて十分ほどの距離にあった。木造の平屋建てで、屋根には雪止めの鉄の棒が並び、窓ガラスは古くて薄く、曇り空を白く透かしていた。正面に立ったとき、朔はなぜかその建物が息をしているように感じた。古い木材の膨張と収縮が、微かに音を立てていたからかもしれない。
職員室に入ると、先に来ていた教頭の小沼が顔を上げた。五十代半ば、眼鏡の奥の目が常に何かを値踏みするように細い男だった。
「白瀬先生、今日からよろしくお願いします。授業は九時から。生徒は七名、複式ですので」
「はい、承知しています」
「何かわからないことがあれば何でも」
と言いながら小沼はすでに視線を書類に戻していた。何でも、という言葉の中身は空っぽだった。朔は自分の机の引き出しを確かめ、出席簿と教科書の束を抱えて廊下に出た。
教室は一つだけだった。
九時きっかりにドアを開けると、七つの顔がいっせいに朔を向いた。中学一年から三年まで、それぞれ二、三名ずつが縦長に並んだ席に座っている。朔は黒板に名前を書いた。白瀬朔、と。チョークの音が思ったより大きく響いた。
「東京から来ました、理科担当の白瀬朔です。よろしく」
反応は薄かった。数人がぺこりと頭を下げ、あとはじっとこちらを見ていた。都会の学校なら誰かが声を出すか笑うかするはずなのに、この教室には妙な静けさがあった。朔は気にしないことにして、出席を取り始めた。
名前を呼ぶたびに、生徒たちは短く返事をした。はい、と。全員が同じ音程で。
「綾部、紬」
返事は来た。しかし朔が顔を上げたとき、その生徒は窓の外を向いていた。
窓際の最後列。制服の襟を真っ直ぐ立て、両手を机の上に揃えて置いた姿勢は、まるで人形が座っているようだった。横顔だけが見えた。色の薄い肌、長い睫毛、結い上げた黒髪。雪明かりの中で、その輪郭だけが妙に際立っていた。
「綾部さん」
朔がもう一度呼ぶと、少女はゆっくりと顔をこちらに向けた。しかし目は合わなかった。視線は朔の顎のあたりで止まり、それ以上上がってこなかった。
「はい」
それだけ言って、また窓の外に顔を戻した。
朔は少し間を置いてから、出席簿に丸をつけた。
授業は複式学級特有の難しさがあった。一年生に地層の話をしている間、三年生には別の課題を解かせ、時間が来たら入れ替える。教材の切り替えが慌ただしく、生徒たちの習熟度の差を頭の中で常に計算しながら声を出し続けなければならない。それでも朔は気力で乗り切った。東京での研修では学べなかった種類の充実感が、くたびれた体の芯に残った。
他の生徒たちは、恐る恐るながらも朔の問いかけに答えてくれるようになった。田中という一年の男子が岩石標本に目を輝かせ、川崎という三年の女子が「先生、東京はどんなところですか」と質問してきた。朔は笑いながら答えた。うるさくて、狭くて、雪が降らない場所だよ、と。
ただ一人、紬だけが、ほとんど朔の顔を見なかった。
指名しても答えは返ってくる。教科書を開く動作も、ノートを取る動作も、問題に取り組む様子も、何一つ怠けてはいない。それなのに、目だけが常にどこか遠くを向いていた。窓の外の雪、黒板の端、床。朔の存在を、視界の隅で確認しながら決して正面には捉えない。
気になった。しかし授業中に追及できることでもなかった。
午後の授業が終わり、生徒たちが帰り支度を始めた。賑やかではないが、それなりの声と動きが廊下に流れ出た。朔は机の上の書類を片付けながら、七人が教室を出ていくのを確かめた。
確かめた、はずだった。
職員室に戻る前に教室を一度見回そうとしてドアを開けると、一人だけ残っていた。
綾部紬が、箒を手に黒板の前を掃いていた。
日直の仕事ではないはずだった。今日の日直は田中だった。朔は入口に立ったまましばらく見ていた。少女は朔が来たことに気づいているはずなのに、顔を上げなかった。箒を動かす音だけが、板張りの床に低く響いていた。
「日直じゃないよね、綾部さん」
少女の手が少し止まった。
「はい」
「じゃあなんで」
「田中くんが早く帰らないといけない日でしたから」
それだけ言って、また箒を動かし始めた。朔は教室の中に入り、自分の机の前に立った。何か言おうとして、言葉を選んでいるうちに沈黙が伸びた。
「慣れますか、ここに」
紬が唐突に言った。
朔は少し驚いて少女を見た。顔は相変わらず下を向いていた。
「慣れると思う。まだ一日目だから」
「そうですか」
「白妻村は初めてじゃないんだけどね」
思わずそう言ってしまってから、朔は自分でも驚いた。確かにそうだった。この村に来たことがある気がする。記憶の形をしていないが、体のどこかが知っている感触。幼い頃の何か、まだ輪郭を持たない何か。
「先生はここに来たことがあるんですか」
「どうだろうな。覚えていないんだ。夢みたいな感じで」
紬はそれきり黙った。掃除を続けた。朔も何も言わなかった。
やがて紬が掃除を終えて自分の席に戻り、鞄を取り上げようとした瞬間、机の天板と引き出しの隙間から何かが落ちた。白い、薄いもの。
床に散らばったそれを、朔は何気なく拾い上げた。
花弁だった。
乾燥して縁が透き通るほど薄くなった、白い花弁が数枚。何の花かはわからない。この季節に咲く花ではないことだけは確かだった。もっと古い、もっと遠い季節から運ばれてきたもののように見えた。指先でつまんでいると、紙よりも軽かった。
「これ、落ちた」
差し出すと、紬はそれを見て一瞬だけ固まった。ほんの一瞬だったが、朔にははっきりと見えた。少女の指先が、微かに震えたことも。
「……ありがとうございます」
受け取るとき、紬の指が朔の手に触れた。冷たかった。雪よりも冷たい、と思った。
紬は花弁を丁寧に手の中に包んで、鞄の奥にしまった。それから一度だけ朔に頭を下げて、教室を出た。
廊下を遠ざかる足音が消えると、朔は一人になった。
窓の外では雪がまた降り始めていた。細かい、粉のような雪が、光の中でゆっくりと落ちていた。朔はしばらくそれを見ていた。
白い花弁と、白い雪。
昨夜、押し入れで見つけた褪せた赤い布のことを、朔はふと思い出した。あの布を手放せなかった夜のことを。指先に残っている乾いた感触が、あの布の手触りと、妙に似ていた。
気のせいだ、と思おうとした。
しかし白妻村の雪は、溶けなかった。