眠れない夜だった。
透との会話が、反芻するたびに形を変えて朔の頭の中に滲んだ。飢饉。契約。百年。それらの言葉は朔の合理主義の網を素通りして、もっと深いところ――理屈の届かない場所に沈んでいった。
窓の外では雪が降り続けていた。昼も夜も区別なく降り積もるこの村の雪は、何かを埋めることに慣れているように見えた。足跡を。記憶を。あるいは、問いそのものを。
朔は布団の上に座ったまま、安普請の教員住宅の壁を眺めていた。壁紙の継ぎ目がわずかに浮き上がり、湿気を含んで黄ばんでいる。赴任当初から気になっていたが、今夜はその線が、何か別のものの輪郭に見えた。
時計を確認すると、午前二時を過ぎていた。
立ち上がって台所へ行き、水を飲んだ。冷水は喉を通るとき痛いほど冷たくて、それでようやく少し、頭が醒めた気がした。
そのとき、気がついた。
玄関の引き戸の、磨りガラスの向こうに、何かがある。
最初は雪の積もった郵便受けだと思った。あるいは配達物の段ボール箱か。しかし輪郭はもっと小さく、もっと整っていた。人間の形に近く、しかし人間ではない何かの、沈黙した佇まい。
朔は数秒、そこに立ち尽くした。
引き戸を開けるべきか。
合理的に考えれば、見に行くべきだった。深夜に玄関先に物が置かれているなら、確認するのが当然だ。しかし足が動かなかった。正確には、動かすのを躊躇った。何かを見てしまえば、もう見なかったことにはできない、という予感があった。
それでも朔は引き戸に手をかけた。
外気が一気に流れ込んできた。雪の匂い。山の冷気。そして、かすかに、古い木と膠の匂い。
玄関の三和土に、それは座っていた。
花嫁人形だった。
昼間、社の奥座敷で見たものと同じ、白無垢の衣をまとった市松人形。髪は黒く艶を放ち、白い顔は完璧な左右対称で、磁器のような滑らかさを持っていた。半開きの口元には薄く紅が引かれ、閉じた瞼の上には繊細な睫毛が並んでいた。
なぜここにある。
思考がその一点で停止した。社の奥座敷に奉納されているはずの人形が、なぜ深夜に自分の玄関先に座っているのか。誰かが運んだのか。誰が、何のために。
朔はゆっくりと、人形の前にしゃがみ込んだ。
近づいて見ると、衣の裾に雪が少し付いていた。しかし足跡は、朔の玄関先には一つもなかった。新雪の上に、誰の痕跡も残っていない。風もない夜だった。
朔が手を伸ばしかけたとき。
人形の首が、動いた。
ゆっくりと、しかし確実に、首が右へと傾いた。乾いた軋みひとつなく、滑らかに。そして、閉じていたはずの瞼が、半分だけ持ち上がった。
目があった。
硝子の瞳は黒く濡れていて、焦点などというものを持たないはずだった。しかし確かに、それは朔を見ていた。朔のいる場所を、いや、朔という存在を、静かに、じっと見つめていた。
朔は声も出なかった。
後ずさりする本能と、動いてはいけないという直感が、身体の中でせめぎ合った。人形の口元が、微かに歪んだように見えた。笑みとも苦悶とも取れない、人間の感情のどれにも当てはまらない表情。百年分の何かを圧縮したような、重い歪み。
どれほどの時間が経ったのか、分からなかった。
気がつくと朔は引き戸を閉めていた。内側から鍵をかけて、壁に背をつけて、ずるずると床に座り込んだ。心臓の音が耳の中で鳴っていた。掌に汗をかいていた。足先が凍えていた。
しばらくそのまま、動けなかった。
時計の針が午前三時を指した。
朔はもう一度、引き戸を開ける勇気を持てなかった。それを自覚することが、また別の恐怖だった。合理主義者であるはずの自分が、磁器の人形一つに動けなくされている。解釈する言葉が見つからないものを前に、ただ壁に貼りついている。
布団に戻ったのか、それとも台所の床で眠ったのか、朔には判然としなかった。気を失うように意識が途切れ、次に目が開いたとき、窓の外は鈍い白に染まっていた。
朝だった。
朔は立ち上がり、引き戸を開けた。
玄関先には何もなかった。
三和土は昨夜のままで、雪面にも足跡はない。人形が座っていた痕跡すら、見あたらなかった。衣の裾から落ちた雪のかけらも、人形が触れた床の汚れも、何一つ。
朔は玄関の外に出て、あたりを見回した。朝の光の中で、白妻村は普段と変わらぬ静けさをたたえていた。遠くで鴉が鳴いた。屋根から雪が落ちる、ぼさりという音がした。
夢だったのかもしれない。
朔の頭の中で、その言葉が浮かんだ。眠れないまま幻覚を見た。透との会話で過剰に感受性が刺激されて、意識が半分夢の中にあった。合理的に考えれば、そう結論するのが妥当だ。
しかし。
朔は自分の右手を見た。人形に手を伸ばしかけたとき、指先がかすかに触れたような感覚があった。陶器の冷たさ。そしてもっと奥に、微かな熱。生き物の体温には届かないが、死んだ物の冷たさとも違う、曖昧な温度。
夢の中でそこまで感じるだろうか。
学校へ行かなければならなかった。朔は顔を洗い、着替えた。鏡の中の自分の顔は、一晩で少し老けたように見えた。目の下に影があり、唇の色が薄かった。
玄関を出るとき、朔は三和土の隅に視線を落とした。
そこに、一本の黒い糸が落ちていた。
細く、光沢のある、絹糸。人形の髪と同じ色。
朔は糸を拾い上げ、指に巻きつけた。夢が残していくものを、朔はまだ知らなかった。知っていたとしても、この糸を捨てることができたかどうか、分からない。
山から吹き下ろす風が、朔の頬を撫でた。雪の匂いと、かすかに、古い膠の匂いが混じっていた。
朔は歩き出した。背後を振り返らないように、意識して、足を前に踏み出した。それでも耳の奥で、首が回る、あの静かな軋みが、鳴り続けていた。