朝の職員室には、石油ストーブの燃える匂いが充満していた。
昨夜のことを、朔はまだ整理できていなかった。三和土に落ちていた黒い絹糸は、今も自分の机の引き出しの中にある。半紙に包んで仕舞ったはずなのに、朝になっても確かめずにはいられなかった。存在していた。夢ではなかった。それだけは確かだった。
窓の外では、雪が降り続いている。白妻村の雪はいつも音がない。東京の雪は、降るとき街の騒音を吸い込んでどこか賑やかな沈黙をつくるが、ここの雪はただ降る。積む。覆う。それだけだ。
一時間目の授業が始まる前、朔は教室へ向かった。廊下を歩きながら、昨夜の人形の顔を思い出した。薄暗い玄関の明かりの中で、あの黒い瞳が動いた瞬間。首が、ゆっくりと。
思考を振り切るように、教室の引き戸を開けた。
生徒たちが一斉にこちらを向く。朔は出席を取りながら、無意識に紬の席を探していた。窓際の後ろから二番目。いつもそこにいる。
綾部紬は、いた。
ただ、その表情が普段と違った。もともと感情の乏しい顔立ちをした少女だったが、今日はさらに何かが削ぎ落とされたように見えた。血の気が薄く、目の下に青みがかった翳りがある。それでも姿勢は真っ直ぐで、教壇の朔をじっと見ていた。
授業が終わるころ、朔は「少し残れるか」と紬に目で合図を送った。紬は小さくうなずいた。
他の生徒たちが出ていくと、教室はがらんとした。ストーブの音だけが続いている。朔は黒板消しを置き、紬の席の前に立った。紬は立ち上がろうとしなかった。椅子に座ったまま、朔を見上げる。
「顔色が悪い。昨日もあまり眠れなかったか」
紬はすぐには答えなかった。窓の外の雪を一瞬見て、それから視線を戻した。
「先生は」と、紬は言った。声は低く、静かで、ほとんど感情がなかった。「私が死ぬと思いますか」
朔の胸の中で、何かが止まった。
言葉の意味を処理する前に、体が先に反応していた。膝を折って、紬と目線を合わせる。
「なぜそんなことを言う」
「思っているだけです。先生に聞きたかった」
「紬」
名前を呼ぶと、紬は少しだけ目を細めた。驚いたのかもしれなかった。朔がこれまで、彼女を名前で呼んだことはなかった。
「死ぬつもりがあるのか」と朔は続けた。できるだけ平坦に、しかし確かめるように。「それとも、死ぬことになると思っているのか」
沈黙があった。ストーブが低く唸る。
「後者です」と紬は言った。「私がそうしたいとか、そういうことじゃない。なる、と思っているだけ」
朔はその言葉を、頭の中で転がした。合理主義者の自分なら、ここで「そんなことはない」と否定するべきだった。しかし昨夜の体験が、その理屈を内側から崩していた。黒い絹糸。動いた首。開いた目。
「夢を、見ているか」と朔は訊いた。
紬の体が、わずかに固まった。
「……見ています」
「花嫁人形が出てくる夢か」
今度の沈黙は、長かった。紬は朔の顔をじっと見た。疑っているのではなく、測っているような目だった。この人間に話していいかどうかを、じっくりと見極めている目。
「どうして知っているんですか」
「昨夜、うちの玄関に来た」
紬の唇がわずかに開いた。それが、朔が見た中でもっとも驚いた表情だった。
「先生のところにも」
「ああ」
もう一度、しばらく間があった。紬は膝の上で手を組み、それをしばらく見つめてから、顔を上げた。
「話してもいいですか」と彼女は言った。「誰にも話したことがないから、うまく言えるかわからないけど」
「聞く」
紬はゆっくりと息を吸った。
「最初に夢に出てきたのは、秋の終わりごろです。人形が部屋に立っていて、何かを言っている。でも声が聞こえない。口だけが動いている。私はいつも夢の中で、近づけない。足が動かなくて、ただ見ているだけで、朝になると目が覚める」
朔は何も言わずに聞いた。
「最初は怖かったです。でも、だんだん慣れてきた。慣れるほうがおかしいって分かっているけど、毎晩同じことが続くと、それが普通になってくる。先生は、そういうことってありますか」
「ある」と朔は言った。それは本当のことだった。
「人形は、怒っているわけじゃないと思う」と紬は続けた。「怖い感じじゃない。ただ、何かを伝えようとしている。すごく必死に。でも私には聞こえない。それが一番つらい。怖いより、つらい」
朔は紬を見た。十六歳の少女が、毎晩ひとりでそれを抱えていたのだと思ったとき、胸の奥に何か固いものが生まれた。怒りとも悲しみとも違う。もっと根の深い、強い感情だった。
「誰かに話したことは」
「ない」と紬は即座に言った。「叔父には言えない。お父さんとお母さんはもういないから。友達には、信じてもらえないか、余計なことになるかどちらかだと思って」
「俺には話してくれたのか」
紬は少し考えた。
「先生は外から来た人だから。村のことを、当たり前だと思っていない。それに」と彼女は言いかけて、止めた。
「それに」と朔は促した。
「昨日、先生が私の話を否定しなかった。廊下で会ったとき、私の目を見て、ただ聞いてくれた。それだけで、少し違った」
朔は思い出した。昨日の放課後の廊下。紬と短い言葉を交わしたあの瞬間。自分はただ立っていただけだったのに、紬にはそれが届いていたのだ。
「紬」と朔は言った。「お前は死なない」
断言だった。根拠のない確信だったかもしれない。しかし嘘ではなかった。
紬は朔を見た。
「そう言える理由が、先生にはあるんですか」
「今はない」と朔は正直に答えた。「でも、見つける。俺が何とかする。お前が死ぬことはさせない」
紬は長い間、朔を見ていた。その目が、少しだけ揺れた。泣くのかと思ったが、紬は泣かなかった。ただ、膝の上の手をほどいて、静かに息を吐いた。
「先生は」と彼女は言った。「正直な人なんですね」
「どういう意味だ」
「根拠がないのに、根拠があるように言わなかった」
朔は何も言えなかった。
紬は立ち上がった。鞄を肩にかけ、ドアの方へ歩きかけて、ふと立ち止まった。
「人形が言おうとしていることが、分かればいいと思ってる」と彼女は言った。背中を向けたまま。「怖いというより、知りたい。あの人形は、何を伝えたいんだろうって。百年、ずっと誰かに伝えようとしてきたなら、それはきっと大事なことだと思うから」
引き戸が開いて、閉まった。廊下に遠ざかる足音が、雪の降る村の静寂に吸い込まれていった。
朔はしばらく、空になった教室に立っていた。
紬の言葉が、耳の奥に残っていた。怖いというより、知りたい。あの言葉には、諦めとも勇気とも異なる何かがあった。人形に選ばれたことを静かに受け入れた少女の、ただ純粋な問いだった。
朔は引き出しに手を入れた。半紙の中の、黒い絹糸。指先でそれに触れたとき、ひどく冷たかった。
その夜、朔は蛭田志津の家への道を、雪の中に踏み出した。