夜がまだ青いうちに、朔は宿を出た。

 山の夜明けというものは、東の空が白む前にいちど深く沈黙する。鳥も鳴かず、雪も音を立てず、世界全体が息を詰めて何かを待っているような、あの奇妙な間がある。朔はその間の中を、新雪を踏みしめながら歩いた。長靴の底が軋むたびに、自分の存在がひどく場違いなものに思われた。

 志津の話は、昨夜の夢の中でも続いていた。

 桃という少女の顔は知らない。写真も遺影も残っていないと志津は言っていた。それでも夢の中では輪郭だけの顔があって、朔のほうに向けられていた。何かを言おうとしているのに、口が開かない。声が出ない。ただ、白い着物の袖だけが、ゆっくりと揺れていた。

 氏神の社は、村の最奥、杉の密林を抜けた先にある。

 村人が普段その方角を口にするとき、なぜか声がわずかに低くなることを、朔は赴任して間もなく気づいていた。意識的にそうしているわけではないのだろう。ただそうなってしまう、という類の習慣だ。長い年月をかけて体に刻まれた、畏れの所作。

 参道と呼ぶには心許ない踏み分け道を辿るうちに、杉の枝から落ちた雪が首筋に入った。朔は首をすくめ、それから少し自嘲するように息を吐いた。昨日まで、ここへ一人で来ることをためらっていた自分がいる。合理主義者を自称しながら、実のところ怖かったのだと、雪の冷たさがはっきりと教えてくれた。

 だが今日は違う。

 自分の苗字が、この村の開祖一族に繋がる。志津がそう言った瞬間、何かが胸の奥で音を立てた。鍵が回るような、あるいは封がほどけるような、小さな確かな音だった。

 社が見えた。

 思っていたより小さかった。雪をたっぷりと積んだ茅葺きの屋根が、杉木立の陰でひっそりと息をしている。柱の朱塗りは長い年月で褪せ、木目が透けて見えるほど色が薄れていた。注連縄だけが新しく、正月に替えられたばかりのものだと分かった。

 朔は鳥居の前で立ち止まり、一礼した。

 なぜそうしたのか、自分でも説明できない。信仰があるわけではない。ただ体が先に動いていた。

 扉は、閂がかかっていなかった。

 引いた瞬間、冷えた木の匂いと、線香の残り香が流れ出てきた。古い甘さだった。何年も、何十年も積み重なったものが空気になったような匂い。朔は目を細め、内部の薄闇に目が慣れるまで待った。

 正面に、小さな祭壇がある。

 そしてその中央に、ガラスケースが置かれていた。

 人形は、そこにいた。

 おそらく一メートルにも満たない。だが部屋の中でその存在は、不釣り合いなほど大きな密度を持っていた。白い顔、赤い唇、黒髪を几帳面に整えられ、打掛の裾を畳に引いて、微動だにしない。

 美しかった。

 それが最初の感想だった。そしてすぐに、その美しさの性質が普通のものと違うと気づいた。完璧に整えられているからこそ、何かが欠けている。水面がなめらかだからこそ、その下の深さが分からない、あの感覚に似ていた。

 目だった。

 人形の目が、どこも見ていなかった。

 ガラスで作られた目玉は、確かに前方を向いている。しかし焦点がない。何かを見ているのではなく、ただそこに開いているだけ、という目だった。それは普通の人形の目とは異なる空虚さで、朔は気づかぬうちに息を浅くしていた。

 着物の模様に目が移った。

 打掛には白地に薄紅の花弁が散っており、一見すると牡丹か芍薬を模した刺繍のように見えた。だが目を凝らすと、花弁の中に何かが縫い込まれているのが分かった。細い、細い線で。

 文字だった。

 文字のように見えた。しかし光が足りなかった。朔はケースに顔を近づけ、目を細めた。その文字は読めそうで読めなかった。古い書体なのか、糸の細さが問題なのか、あるいは自分の目が拒否しているのか、輪郭は掴めるのに意味が結ばない。どうしても焦点を合わせることができない、夢の中の文字に似ていた。

 しばらくそうしていると、朔はある確信を持った。

 あの文字は、読まれることを望んでいる。

 なぜそう思ったのか分からない。ただ、人形の目が焦点を持たないのとは対照的に、着物の刺繍だけが、奇妙なほど強く自分を引き寄せていた。

 朔は手袋を外した。

 ガラスケースには取っ手がついていた。外から錠はかかっていない。朔は指先でそれに触れ、一瞬躊躇い、それから引いた。

 ケースが開いた。

 中の空気が流れ出た。それは線香の匂いとは違う、もっと古い何かの匂いだった。湿った布の匂い、とも少し違う。あえて言葉にするなら——人の匂いに近かった。百年前の、誰かの体温がそこに残っているような。

 朔は手を伸ばした。

 着物の刺繍に、指先が届きそうになったとき。

 声が聞こえた。

 子供の声だった。

 泣いている。

 社の外、しかし遠くはない場所から、幼い泣き声が聞こえてきた。高く、細く、風に乱されることなく、ただまっすぐに続いていた。女の子の声のようだった。いや、もっと小さい、まだ言葉も持たないような幼子の声。

 朔は振り返った。

 誰もいない。

 扉の向こう、参道の見える限りの範囲に、人影はなかった。踏み固められていない新雪が、朔が踏んできた足跡以外、何も刻んでいなかった。

 声だけがある。

 朔は半歩、扉のほうへ踏み出した。声は止まなかった。どこか一点から聞こえるのではなく、雪の中全体から湧き出してくるように聞こえた。あるいは杉の幹の内側から。あるいは地の底から。

 冷えた空気が、朔の頬を撫でた。

 振り返ると、人形の目がまだ虚空を向いていた。だが何かが変わった気がした。ほんのわずか、目の角度が変わったような——いや、気のせいだ。そう思いたかった。

 泣き声は、やまなかった。

 朔は社の入口に立ったまま、どちらへも動けなくなった。外には誰もいない。中には人形がいる。そして着物の刺繍は、まだ読めないまま待っている。

 白い朝が、少しずつ山の端に染み出してきた。

 泣き声は雪に溶けるように薄れ、やがて消えた。静寂だけが残った。朔は長い間そこに立ち、自分の心臓の音を数えた。

 あの文字を、読まなければならない。

 それだけが、今確かなことだった。そして読むためには、もっと光が必要だ。もっと知識が必要だ。おそらく——もっと覚悟が必要だった。

 朔はもう一度ケースの蓋をそっと閉じた。

 人形の目が、相変わらずどこかを見ていた。いや、見ていなかった。ただ開いているだけだった。その区別が今は、ひどく重要なことのように思われた。

 見る、ということ。見られる、ということ。

 百年前の少女は、最後に何を見たのだろう。

 朔は一礼して社を出た。雪の上の自分の足跡だけが、まっすぐに来た道を示していた。泣き声の痕跡は、どこにもなかった。

花嫁人形と、溶けない雪の村

17

氏神の社へ

氷室 宵子

2026-05-29

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第17話 氏神の社へ - 花嫁人形と、溶けない雪の村 | 福神漬出版