朝の光が窓硝子を白く染める頃、白瀬朔は職員室の自分の席に座ったまま、湯気の消えた茶を見つめていた。
昨夜、あの社に行ったことは、もう村中に知れているらしかった。
それを悟ったのは、朝一番に登校してきた佐々木という五年生の男の子が、朔の顔を見るなり廊下を引き返していったときだった。足音が小走りになり、やがて消えた。追いかけようとして、朔は立ち止まった。追えば、余計に怖がらせるだけだと思った。
職員室に戻ると、隣の席の吉岡教諭が視線を手元の書類に落としたまま、「今朝は冷えますね」と言った。それだけだった。いつもなら朝の挨拶の後に天気や子どもたちの話をする人間が、ただそれだけを言って沈黙に戻った。
朔は返事をしながら、吉岡の耳が微かに赤くなっているのを見た。
廊下を歩けば、すれ違う村の父母たちの目が逸れた。朝の見送りで校門に立っていた婦人会の女性たちが、朔が近づくと話を止めた。再び話し始めたのは、朔が校舎の扉を開けた後だろうと思った。
村の目、というものがあるとすれば、それは今、朔にむかって一斉に閉じていた。
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一時間目の授業は、三年生の国語だった。
教室に入ったとき、子どもたちはすでに席に着いていた。いつもなら朔が来る前から騒いでいるはずの教室が、静まり返っている。机に向かう子どもたちの背中が、一様に縮こまっているように見えた。
「おはようございます」
朔が言うと、返事が返ってきた。声はあった。しかし揃い方が、どこかぎこちなかった。まるで練習したかのような、機械的な合唱だった。
授業を始めながら、朔は子どもたちの顔を一人ずつ見た。目が合うと、すぐに視線が落ちた。教科書に落ちた目は、もう上がってこなかった。
発問をしても、手が上がらなかった。先週まで真っ先に手を挙げていた健太が、今日は教科書を顔の前に立てて読んでいるふりをしていた。朔は健太の名前を呼ぼうとして、やめた。
子どもたちは悪くない、と思った。悪くない。親から何かを言い含められてきただけだ。この村で、親の言葉より重いものなど、子どもには持ちようがない。
黒板に文字を書きながら、朔の胸の中でゆっくりと何かが沈んでいった。怒りではなかった。悲しみでもなかった。それはもっと静かなもので、たとえば水底に降り積もっていく泥のような、音のない重さだった。
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昼休み、朔は校庭の隅に立って空を見ていた。
雪は降っていなかったが、雲は低く、白い息が吐くたびに空気に溶けた。校庭には子どもたちがいたが、朔の周囲には誰も来なかった。いつもなら寄ってくる低学年の子たちも、今日は遠巻きに遊んでいた。
外れ者になる感覚を、朔は知っていた。都会の学校でも、場所が変われば人間関係は変わる。それは知っていた。けれどこの村の疎外感は、朔が知っているものとは質が違った。
ここでは、村全体が一つの生き物だった。そしてその生き物が、朔に向けて静かに背を向けている。
社に行ったことが、なぜここまで早く伝わったのか。誰かが見ていたのか、それとも透が動いたのか。朔には分からなかった。ただ、村というものが持つ皮膚感覚のようなものが、異物の侵入を感じ取ったのだという気はした。
砂利を踏む足音がした。
振り返ると、紬が立っていた。
制服の上に紺のコートを羽織り、マフラーをきっちりと巻いている。表情はいつもと変わらなかった。何も語らない、水面のように静かな顔。
「先生」
「紬さん」
「お昼、食べましたか」
朔は少し間を置いてから、「まだ」と答えた。紬は頷いて、弁当の包みを差し出した。
「余りました」
嘘だと分かった。包みは新しく、余ったものには見えなかった。けれど朔は受け取った。受け取ることが、今できる唯一の返答だと思った。
二人並んで、校庭の隅に立ったまま弁当を開けた。梅干しと白い飯と、薄く切った大根の煮物。シンプルな弁当だった。紬は自分の分を持っていなかった。
「紬さん、あなたは」
「さっき食べました」
また嘘だと思ったが、朔は追わなかった。
校庭の向こうで、子どもたちが走り回っていた。笑い声が聞こえた。その声は朔たちのいる場所には届かずに、冷たい空気の中で散っていった。
「孤立しているように見えますか、私」
紬が唐突に言った。朔は箸を止めた。
「そう見えます、先生には」
「……見えます」
「そうですか」
紬は空を見上げた。その横顔には、哀しみも、怒りも、見えなかった。ただ、あの人形の目に似た、虚ろな静けさがあった。いや、虚ろではないと朔は思い直した。満ちていた。何かで、深く満ちていた。
「私は慣れています」
小さな声だった。
「生まれたときから、ここが私の場所でしたから。皆の輪の外が」
朔は何も言えなかった。言えるような言葉を、持っていなかった。
「でも」
紬が続けた。
「先生が来てから、少し変わりました」
「何が」
「外が、あると分かりました」
それだけ言って、紬は黙った。朔も黙った。
二人の間に、白い息が流れた。溶けない雪のように、それは空気の中をゆっくりと漂って、消えた。
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放課後、朔は一人で教室に残った。
子どもたちが帰り、職員たちも帰り、学校は静かになった。黒板に残った自分の文字を消しながら、朔は考えた。
社の人形の着物に刺繍された文字を、読まなければならない。今夜、もう一度行く必要があるかもしれない。しかし昨夜のことが村に知れた今、もし再び行けば、透が黙っていないだろう。
雑巾を水で洗いながら、窓の外の山を見た。雪を被った峰が、灰色の空に溶け込んでいた。
あの社は、山の中腹にある。夜に行けば、誰かに見られる。
だが、見られることを恐れて足を止めれば、紬を守ることはできない。
朔は雑巾を絞り、窓枠に干した。湿った布が冷気に触れて、端から凍りはじめるのが見えた。
そのとき、机の上に置いていた手帳が目に入った。昨夜、社を出る前にメモした断片がある。人形の着物から読み取れた文字のうち、かろうじて判読できたいくつかの字。
手帳を開くと、震えた筆跡でこう書かれていた。
―― 返す、と、誓う者の、血を ――
朔は息を呑んだ。
血を、という言葉の後が、昨夜は読めなかった。暗さと、あの子どもの泣き声に遮られて。
今夜、残りを読まなければならない。
窓の外で風が鳴った。山から下りてくる風が、校舎の壁を低く叩いた。その音の中に、かすかに混じる何かがあった。
朔は窓に耳を近づけた。
泣き声ではなかった。それは声ですらなかった。
ただ、名前を呼ばれているような気がした。自分の名前ではなく、もっと古い、誰かの名前を。