夢の中で、雪が降っていた。
綾部紬が最初にそう気づいたのは、己の足元を見たときだった。白い地面が音もなく沈み込み、草履の鼻緒がうっすらと冷気を伝えてくる。雪ではない、と思った。雪にしては粒が細かすぎて、降るというよりも漂っているようだった。まるで世界そのものが粉になって崩れていくような、そういう質の白さだ。
社の前に、人形が立っていた。
立っている、という表現が正しいかどうかも分からない。ただそこに在った、と言うべきかもしれなかった。朱塗りの柱に背をあずけ、首をわずかに傾けた市松人形。白い頬に差した紅が、雪の中で異様なほど鮮やかだった。
紬は近づいた。夢の中では、恐怖というものが奇妙に薄い。あるにはある。しかしそれは皮膚の外側を撫でるだけで、肉の中には届かない。夢の恐怖とは、そういうものだと紬は知っていた。ここ数週間で、深く知った。
人形の唇が動いた。
最初は音にならなかった。ただ空気が震えて、白い粒が揺れた。それから少しずつ、輪郭を取り戻すように、言葉がやってきた。
――もも。
紬は足を止めた。
――もも、もも、もも。
繰り返す。人形の目は動かない。黒硝子の瞳が紬を見ているのか、あるいは紬を通り越して遠い何かを見ているのか、判然としない。ただ唇だけが、その一音を刻み続ける。桃。桃。桃。
名前を呼んでいるのだ、と紬は思った。
誰かの名前を。
その瞬間、夢の景色が割れた。
*
婚礼の灯りは、蜜のような色をしていた。
紬は気づけば別の場所にいた。板張りの廊下で、足元には見慣れない柄の畳が広がっている。時代が違う。そう感じた。空気の粒が重く、煤けた匂いがする。障子の向こうで誰かが泣いていた。いや、泣いているのではなく、笑っているのかもしれなかった。その区別が、この夢の中ではつかない。
紬はゆっくりと障子を引いた。
部屋の中に、少女がいた。
白無垢を纏っている。綿帽子が深く被せられていて、顔は見えない。ただ、震えていた。膝の上に置いた両手が、ひどく小さかった。紬より幼い。十四か、十五か。あるいはもっと幼いかもしれない。
「……桃」
誰かが呼んだ。紬の声ではなかった。部屋の隅の暗がりから、老いた女の声がした。「桃、あんたが選ばれたんだ。村のために、ちゃんとお勤めしなさい」
少女は頷いた。白無垢の肩が震えながら、それでも確かに頷いた。
紬の胸が痛んだ。夢の中で痛みを感じたのは、初めてだった。
少女が顔を上げた。綿帽子の縁から、視線がこぼれた。黒い瞳が、まっすぐに紬を見た。
紬は息を呑んだ。
その目に、光がなかった。消えているのではない。最初から、灯されていないのだ。
「……来てくれたの」
少女が言った。声は妙に落ち着いていた。泣いてはいない。笑ってもいない。ただ静かに、事実として言葉を置いた。「ずっと待っていた。誰かが来るのを。百年、待っていた」
紬は何も言えなかった。
「わたしの名前、分かる?」
分かる、と紬は思った。
桃。百年前にこの社に奉納された少女の名前。花嫁人形の中に閉じ込められた魂の名前。
「分かるのに、ここには来てくれないのね」
少女の声が、泣き笑いに滲んだ。「みんな分かるのに、来ない。来られない。来ようとしない。わたしはずっと、ここにいる」
「桃」
紬は初めて声を出した。夢の中で声を出したのも、初めてだった。「わたしは、何をすればいい」
少女が首を傾けた。その仕草が、人形とまったく同じだった。
「あなたは来なくていい」と桃は言った。「来てほしいのは、血の人。返せる人。わたしが返してほしいのは、ここじゃない」
何かが崩れる音がした。夢の柱が、夢の障子が、夢の灯りが、一度に溶けていった。白い粒が再び舞い上がる。紬は叫ぼうとしたが、声が出なかった。桃の姿が遠くなった。白無垢が雪に溶けていった。最後に残ったのは、黒い瞳だけだった。
――もも、もも、もも。
人形の声が再び戻ってきた。
紬は目を覚ました。
*
障子の向こうが白んでいた。
紬は布団の中で天井を見ていた。心臓が速い。しかし体は動かない。動かせないのではなく、動かす必要を感じていなかった。ただ横たわったまま、夢の残像をひとつずつ確認していた。
桃の目。
光のない、しかし確かに何かを訴えていたあの目。
あれは呪いではない、と紬は思った。呪いを押しつけているのではない。あれは懇願だった。百年分の、静かな懇願だった。
紬は自分の手を見た。薄明かりの中で、細い指が白く浮かんでいる。昨夜から、手の先が少し冷たい。寒いからだろう、と最初は思っていた。しかし布団の中にあっても、冷たさは引かなかった。
もう一度、手を見た。
指先に、うっすらと紅がかかっているような気がした。
気のせいだ。そう思った。思おうとした。
朝の光の中で、紅はゆっくりと消えていった。あるいは、最初からなかったのかもしれない。
紬は起き上がり、鏡台の前に座った。乱れた黒髪を梳きながら、鏡の中の自分を見た。顔色は悪くない。眠れている証拠だ、と叔父の透はいつも言う。人形に選ばれた娘は眠れるうちは大丈夫だ、と。
しかし鏡の中の紬は、何かが違った。
瞳が、違う。
いつもの自分の目は、どこか乾いていた。感情を出すことを許されていない子どもの目だ、と朔先生が初めて会ったとき言いかけて、途中で黙り込んだ。その意味が、今になってようやく分かる。
しかし今の瞳は、乾いていなかった。
それはどこか、遠くを見ていた。窓の外の雪山でも、障子の模様でもなく、もっとずっと遠い、百年前の婚礼の夜を見ているような目だった。
紬は自分で自分の目を見て、初めて怖いと思った。
梳り途中の髪から、手が離れた。
桃、と声が聞こえた気がした。
自分の喉から出た声ではなかった。確かに、外側から来た声だった。部屋の隅、人形が置かれている方向から。振り返ることができなかった。鏡だけを見ていた。
鏡の中の自分が、わずかに首を傾けた。
紬が傾けたのではなかった。
紬の体が動くより先に、鏡の中の紬が動いた。
それは一瞬のことで、すぐに元に戻った。気のせいかもしれなかった。まだ夢の続きかもしれなかった。しかし紬には分かっていた。あれは夢ではない。鏡の中の自分は確かに、桃が傾けるような首の角度で、そうした。
朔先生に、言わなければならない。
紬はそう思った。しかし同時に、言えない、とも思った。言葉にすれば、先生は何かをしようとする。何かをしようとすれば、叔父さんが止める。止めることで、また誰かが傷つく。
村はいつもそうやって動いてきた。
紬はもう一度鏡を見た。今度は、普通の自分の目が映っていた。
それがかえって、恐ろしかった。
どちらが本当の自分なのか、もはや分からなかった。夢の中の桃が言った言葉が耳の奥で繰り返した。*ずっと待っていた。百年、待っていた。*
外で雪が降り始めた音がした。
紬は鏡から目をそらし、着替えを始めた。手の先は、まだ冷たかった。