炉端の火が、低く息をしていた。
蛭田志津の家には電灯の代わりに蝋燭が立てられることが多い。村の外れ、杉林の奥まった場所に建つその古い家屋は、外の雪明かりも届かず、夜になると深海のような暗さに沈む。今夜も朔が訪ねたとき、老婆は炉の前に座ったまま背中を向けていた。訪いを告げる声をかける前に「おあがり」と言われた。
朔は靴を脱ぎ、板間に上がった。囲炉裏の向こうで火が跳ねるたびに、志津の白い髪が揺れた。
「紬の様子が変わってきています」
朔は単刀直入に切り出した。
「鏡の中で自分が別の顔をしている、と彼女は言いました。境界が薄れてきている。あなたが知っていることを、すべて教えてほしい」
志津はしばらく動かなかった。炉の灰を小さな鉄の棒で搔き均し、火の具合を確かめるように目を細めた。やがて、ゆっくりとこちらを向いた。
「すべては話せない」老婆の声は乾いた木の軋みに似ていた。「だが、今夜は少し、話せることがある」
朔は黙って待った。
「葛という名の姉がいた」
志津は言った。声に感情はなかった。感情を抜き取るのに、何十年もかかったのだろうと朔は思った。
「姉さんの名ですか」
「そうだ。葛は私より四つ上で、十九の冬に人形に選ばれた。あの頃は今と少し違って、選ばれるのは少女だけとは限らなかった。齢の節目に立つ若い娘なら、年格好に幅があった」
炉の火がひとつ跳ねた。
「私は十五だった。姉が夢を見るようになったのは、初雪の頃からだ。毎朝起きると、姉の枕が濡れていた。涙なのか、汗なのか、訊いても姉は答えなかった。ただ窓の外の雪を見て、穏やかな顔をしていた。今思えば、あの穏やかさが一番恐ろしかった」
朔の胸に、紬の顔が重なった。あの静けさ。何もかもを受け入れてしまったような、透明な目。
「儀式は冬至の夜に行われる。村の社で、選ばれた娘が人形の前に座り、夜明けまで過ごす。それだけのことだと大人たちは言っていた。翌朝には必ず帰ってくる、ただの通過儀礼だと」
「しかし」
「しかし」志津は繰り返した。「帰ってきた娘は、皆、どこか欠けていた。目の光が変わっていた。笑うことはできても、笑っていなかった。そういう娘が、それからの人生を静かに、波風なく、終えていく」
朔は膝の上で指を組んだ。炉の火が弱くなったような気がした。
「私は止めようとした。冬至の前夜、姉の着物の袖を引いて、村を出ようと言った。社なんかへ行かなくていい、どこか遠くへ逃げようと。姉は私の手を静かに外して、こう言った」
志津の唇が、少しの間止まった。
「『志津、雪が好きだろう。これからもここで雪を見て生きなさい』」
老婆の声は最後まで平らだった。それがかえって、朔の喉元に何かを押し込んだ。
「冬至の夜、私は社の裏へ忍び込んだ。姉が人形の前に座っているのを見た。蝋燭の火の中で、姉は正座して、目を開けていた。人形も、目を開けていた。二つの視線が重なっていて、私にはとても割り込めなかった。それでも私は姉の名を呼んだ。葛、と。一度だけ」
炉の灰が崩れる音がした。
「姉は振り向いた。振り向いたのだが——顔が、違った。顔立ちは同じだ。だが、そこに姉はいなかった。もうすでに、いなかった。夜明け前のことだった。私が引き戻されるように気を失って、目が覚めたとき、社に姉の姿はなかった。着ていた白い打掛だけが、畳んで置かれていた。まるで脱ぎ捨てたように」
朔はゆっくりと息を吸い、吐いた。
「連れて行かれた、と言いましたね」
「消えたのではない」志津は静かに、しかし確かな声で言った。「連れて行かれたのだ。私が呼んだから」
その言葉の重さが、朔の胸の底へ沈んでいった。
「あなたが名を呼んだことで——」
「姉の意識が戻った。戻ってしまった。そのとき、人形との間に張られていた何かが、ほどけてしまったのだと思っている。人形は繋がりを失った分を取り返すように、姉ごと連れていった。儀式の途中で繋ぎを断ち切れば、人形は器ごと持っていく。そういうことだったのだろう」
朔は言葉を失っていた。炉の火だけが、静かに揺れていた。
「それだけではない」志津は続けた。声がわずかに低くなった。「その後三年間、白妻村に雪が降らなかった」
「——雪が」
「降らなかった。冬になっても、みぞれすら降らなかった。田畑は干上がり、山の水が枯れ、老いた者から順に死んでいった。村人は皆、私のせいだと知っていた。口には出さなかったが、目が言っていた。あの冬至の夜、志津が儀式を壊したと」
三年。朔は心の中でその時間を転がした。
「雪が降らなかったことと、儀式が中断されたことの因果を、誰かが説明しましたか」
「誰も説明しなかった。説明などできない。ただ、そうなった。それが全てだ」志津は細い指を炉に向けた。「儀式は続かなければならない。続けることで、村は守られる。止めれば、村は罰を受ける。百年前からそういうものとして、ここにある」
「しかし——」朔は声を上げた。「それは人形の側が作り出した因果ではないですか。儀式を止めれば災いが起きると思わせることで、誰も逆らえなくする。そのための三年間だったとは考えられない」
志津は朔を見た。老いた瞳の奥に、かつて十五歳だった少女が一瞬だけ覗いた。
「考えた。何度でも考えた」老婆は静かに言った。「だが、三年で七人が死んだ。雪が戻った冬、次の娘が社へ行った。その翌年から、死者は出なくなった。考えることと、目の前の死は、別のことだ」
朔は俯いた。反論の言葉が出てこなかった。
「先生」志津が初めて、そう呼んだ。「私が止めようとしたのは、怖かったからではない。姉を失いたくなかったからだ。だが、私の手は姉に届かなかった。届いたと思った瞬間に、姉は消えた。それが、手を伸ばすということの意味だ。あんたは今、紬に手を伸ばそうとしている」
朔は顔を上げた。志津の目が、揺れない炎のように朔を見ていた。
「私を脅しているわけではないんですね」
「脅す気力は、とうにない。ただ、同じことが繰り返されるのを黙って見ていることも、私にはできない」
炉の火がまた跳ねた。外で風が鳴った。雪の気配が、板壁一枚の向こうにあった。
「あなたが儀式を止めようとしたとき——『返し言葉』というものを、知っていましたか」
老婆の表情が、わずかに変わった。揺るぎない岩肌に、一本だけひびが入ったような変化だった。
「どこでそれを」
「祖父の形見の中に、断片的な記述がありました。儀式を正式に終わらせる言葉があると。私はそれが何かを、まだ知らない」
志津はしばらく黙っていた。炉の灰が、また少し崩れた。
「その言葉を知っていたなら」老婆は低く、ひどくゆっくりと言った。「葛は、別の形で還ってこられたかもしれない」
その声には、何十年分もの後悔が溶けていた。朔は何も言えなかった。
「今夜はここまでだ」志津は火を見たまま言った。「返し言葉のことは、また話す。だが先生、ひとつだけ覚えておきなさい。人形は選んだ娘を手放さない。そして手放さない理由が、ただの呪いではないとしたら——」
老婆の声が、そこで途切れた。
朔は待った。しかし志津はそれ以上何も言わなかった。板間の向こう、暗がりの奥の棚に、白い布に包まれた何かが置かれているのを、朔はその夜初めて気づいた。布の形は、人の顔に似ていた。
外の雪は、音もなく積もり続けていた。