朔が志津の家の戸を叩いたのは、午後の陽が山の端に差し掛かる頃だった。
紬を連れてきたのは朔の判断だった。学校で紬の右手を見た瞬間、教師としての合理的な思考がすべて止まった。そこに刻まれていたのは傷ではなく、文字だった。皮膚の表面に浮き上がるように、あるいは墨を吸い込んだ和紙のように、細く繊細な線が複雑に絡み合っていた。見れば見るほど目の奥が痺れるような、どこか呼吸を乱す文字だった。
「上がれ」
志津は戸を開けた瞬間、紬の手に視線を落とした。何も言わずに背を向け、囲炉裏のそばへと歩いていった。朔は紬の肩をそっと押して先に中へ入れ、自分も続いた。
家の中には今日もかすかに線香の匂いが漂っていた。炭の爆ぜる音だけが静かに繰り返される。志津は火箸を傍らに置き、胡坐をかいたまま手を差し出した。
「見せてみろ」
紬は黙って右手を差し出した。志津の指が、節くれ立った老いた指が、紬の手首をそっと掴んだ。それから長い沈黙があった。囲炉裏の煙が細く天井へ向かって立ち昇り、老婆の視線は紬の手の甲に縫い付けられたように動かなかった。
朔は息を殺して待った。
やがて志津が口を開いた。その声は、朔がこれまで聞いた中で最も低く、かすれた声だった。
「婚礼の、誓い文だ」
朔の胸の奥で何かが落ちた。音のない落下だった。
「誓い文、というのは」
「村の婚礼で交わされた古い言葉だ。百年以上前の。もう誰も口にしなくなった」志津は紬の手を膝の上に乗せたまま、火を見た。「この文字は今では読める者がほとんどいない。わしも、半分はもう忘れかけていた」
「半分は、読めるんですね」
「読める」
短い沈黙ののち、志津はゆっくりと顔を上げた。その目が朔を捉えた。
「花嫁は村と共に眠り、村が目覚めるとき共に醒める」
言葉が、囲炉裏の煙と混じって部屋の中に漂うような気がした。朔は反射的に繰り返した。
「村と共に、眠る」
「そうだ」
「それが、呪いの内容ということですか」
「内容ではない」志津は首を振った。「構造だ。呪いの骨格そのものだ」
朔には最初、その違いがわからなかった。だが志津が続けた言葉を聞いているうちに、じわじわとその意味が染み込んできた。
花嫁人形に選ばれた少女は、死ぬのではない。眠るのだ。村という大きな意志の中に溶け込んで、村が必要とするとき目覚め、必要としなくなれば再び沈む。その繰り返しが百年続いてきた。選ばれた少女たちは消えたのではなく、村の地の底に、雪の下に、ずっと折り重なって眠り続けているのだ。
「村が目覚めるとき、というのは」
「おそらく、この村に危機が迫るたびにだ」志津は低く答えた。「飢饉の年、疫病の年、雪崩の年。記録には残っていないが、そういうとき必ず花嫁人形が動いたという言い伝えがある。村を守るために眠る者が揺り起こされる。そしてまた沈む」
「それは……」朔は言葉を探した。「守護、ということですか」
「搾取だ」
志津の声は低く、しかしはっきりとしていた。
「少女の魂を人質にして村を守らせることを、守護とは呼ばん」
紬がかすかに身じろぎした。朔は横目でその横顔を確認した。紬の表情は相変わらず静かだった。しかし右手を自分の膝の上に引き戻し、文字の浮いた甲を左手でそっと覆っていた。
「先生」
紬が口を開いたのは、それきり静かになりかけていた空気の中だった。
「わたし、夢の中でその子に触れました。白い着物を着た」
「桃のことだな」
志津が言った。紬は頷いた。
「温かかったです。その手が。でも、苦しそうでした。苦しいのか悲しいのか、上手く言えないんですけど。何かを訴えているような」
「そうだろう」志津は小さく頷いた。「百年以上も眠り続けながら、覚めることのできない夢を見続けているんだ。桃は。怒っているのか泣いているのか、もうわしにもわからん。ただ、終わりたいんだろうと思う」
終わりたい、という言葉が、朔の胸の中で反響した。
呪いとして語られてきたものの、その核にあるのは百年分の疲労なのかもしれないと思った。少女一人の、ひたすら長い疲労。
そのとき、朔は気づいた。
志津の目が潤んでいる。
それは最初、囲炉裏の煙のせいかと思った。しかし違った。志津の目の端に、透明な筋が一本、しずかに伝い落ちていた。老婆はそれを拭おうともせず、ただ火を見つめていた。
「志津さん」
朔が呼びかけると、志津はゆっくりとまばたきをした。
「……桃と、知り合いだったんですか」
「桃はわしが生まれる前に選ばれた子だ」志津は静かに言った。「知り合いではない」
沈黙があった。そして志津はもう一度まばたきをして、今度は火から目を離した。その視線がどこを向いているのか、朔にはわからなかった。遠いどこかを見ていた。
「わしの姉が、選ばれた」
朔の息が止まった。
「わしが十二のときだ。姉は十六だった。ちょうど今のこの子と同じくらいの歳だ」
紬が小さく肩を揺らした。
「姉は泣かなかった。朝から夜まで笑顔だった。まるで本当に嫁ぐように、嬉しそうにしていた。わしだけが泣いていた。わしだけが、おかしいと思っていた」
志津の声に揺らぎはなかった。しかしその目から、もう一筋の涙が伝った。
「呪いを止めようとしたのは、姉のためだったんですね」
朔が言うと、志津は答えなかった。しかしそれが答えだった。
「止められなかった」
しばらくして、志津がそれだけ言った。
「呪いは続いた。姉は眠った。今も眠っている。桃と同じように、村の底に」
紬が右手を胸の前で握り締めた。その手に刻まれた文字が、この老婆の姉の体にもかつて刻まれたのだと朔は思った。同じ言葉が、同じように皮膚に浮き上がり、同じように少女の体を村に縛り付けた。
「だから」と朔は言いかけて、止めた。言葉が多すぎると思った。
代わりに志津が言った。
「だから、お前たちには止めてほしい。わしにはできなかったことを」
囲炉裏の炭が、静かに崩れた。灰が白くなって積み重なった。
朔は紬の横顔をもう一度見た。紬は右手を見下ろしていた。その文字を、今度は隠さずに。
返し言葉、と朔の頭の中で何かが囁いた。自分の血の中に眠っているという、呪いを終わらせる言葉。それがどこにあるのか、どんな形をしているのか、まだわからない。しかしこの老婆の涙を見て、朔は確かめてしまった。
自分はもう、引き返せないところにいる。
「志津さん」朔は静かに言った。「返し言葉について、聞かせてもらえますか。何でも構わない。あなたが知っていることを」
志津は長い間、火を見ていた。
やがてその唇が、ゆっくりと動き始めた。