眠りに落ちる瞬間、紬はいつも水の底に沈むような感覚を覚える。

 それは溺れることとは違う。ゆっくりと、重力に逆らわず、ただ下へ下へと引かれていくような静けさだ。白妻村の冬の夜は音を殺す。雪が外の世界を綿で包むように、紬の意識もまた何かに包まれて、静かに沈んでいく。

 今夜もそうだった。

 瞼が落ちた。

 そして気づいたとき、紬は光のない場所に立っていた。

 正確には、光はあった。ただし、その光には色がない。白でも黒でもない、何と呼ぶべきかわからない輝きが、どこからともなく空間を満たしている。足元には床も地面もなく、紬の足はただそこに在るだけで、落ちることも沈むこともなかった。

 夢だ、と紬は思った。思った、というより、確信した。これは夢だ。でも前の夢とは違う。

 以前の夢では、人形はいつも遠かった。廊下の奥に、部屋の隅に、視界の端に、辛うじて認識できる距離にあって、それ以上近づくことも遠ざかることもなかった。人形は存在を示すだけで、何も言わなかった。

 今夜は、目の前に在った。

 市松人形が、紬と同じ高さで浮いていた。

 白粉を塗り固めたような顔。黒漆の瞳。朱を引いた口唇。婚礼衣装は白無垢で、雪よりも白く、紬には触れることのできない清潔さで折り目を保っている。小さな手は膝の上で組まれ、まるで花嫁が嫁入り前の写真を撮るときのように、整然と、静かに。

 紬は逃げなかった。

 逃げようという気持ちが湧かなかった、というほうが正確だった。夢の中の空気は粘度を持っていて、感情さえも動きを鈍らせる。ただ、向き合っていた。

 人形の口唇が、動いた。

 音はなかった。声は出なかった。しかし紬の中に何かが流れ込んできた。言葉ではない。映像でもない。もっと直接的な何かが、まるで血管に液体を注がれるように、内側から広がっていった。

 感覚、と呼ぶほかなかった。

 雪の原っぱに一人で立っている感覚だった。周囲に誰もいない。村もない、家もない、ただ白い野原が地平まで続いていて、その中心に自分だけがいる。寒くはない。ただ、遠い。すべてが遠い。

 それから、婚礼衣装を着た少女の影が見えた。

 遠かった。とても遠かった。近づこうとすると、影は同じだけ遠ざかった。追いかけることができなかった。その影が何かを叫んでいるのはわかった。口が動いていた。手を伸ばしていた。でも声は届かなかった。届かないまま、影は雪原に溶けていった。

 消えた。

 残ったのは、白だけだった。

 そして紬の中に、また何かが流れてきた。今度は映像に近かった。縁側のある古い家。囲炉裏の匂い。松明の炎。白無垢を着た少女が正座している。周囲に大人たちが並んでいる。誰も笑っていない。少女も笑っていない。ただ、儀式が進んでいく。少女の手に、誰かが筆を走らせる。朱色の文字が、小さな手の甲に記されていく。

 紬は息を飲んだ。

 人形の黒い瞳が、わずかに動いた気がした。

 終わらせてほしいのか。

 紬は問いかけた。声ではなく、思念のようなものとして。夢の中では言葉が声にならなくても届く気がした。

 答えは返ってこなかった。

 代わりにまた感覚が流れてきた。今度は温かさだった。炉端の暖かさ。人の体温。誰かに手を握られている感覚。離したくない、という感情。ここに居たい、という感情。それは欲望ではなく、もっと根源的な何かだった。生きることへの執着とも、ただの恐怖とも、違った。

 続けてほしいのか。

 紬はまた問いかけた。

 また答えはなかった。

 人形はただそこに浮いていた。表情を変えないまま。朱の口唇を閉じたまま。黒い瞳で、紬を見ていた。

 紬には判断できなかった。

 人形が示したものは、どちらの答えにも読めた。終わらせてほしい、と訴えているようでもあり、続けてほしい、と縋っているようでもあった。その二つは矛盾しているはずなのに、夢の中では矛盾していなかった。同じ感情の、ふたつの側面のように思えた。

 人形の口唇が、もう一度動いた。

 今度は、音があった。

 声ではない。文字が、空気に刻まれるような感触だった。意味ではなく、形として、紬の意識に押しつけられた。古い言葉だった。紬には読めない文字だった。でも形だけは、焼き付くように残った。

 そうして、夢が割れた。

 ガラスのひびが入るように、光のない空間に亀裂が走り、人形の姿が遠ざかっていった。紬は浮き上がっていった。水面に向かって急速に引き上げられるように、意識が戻ってくる。

 目が覚めた。

 天井が見えた。朝の光が雨戸の隙間から細く差し込んでいた。冬の光は薄く、部屋の中はまだ暗かった。紬は動けないまま、しばらく天井を見ていた。

 胸の中に、人形から流れ込んできたものがまだ残っていた。温かさと遠さが、層を成して沈んでいた。

 やがて紬は右手を持ち上げた。

 視界に入った瞬間、息が止まった。

 手の甲に、文字が書かれていた。

 墨ではなかった。血でも、ペンでも、なかった。何で書かれたのか、紬にはわからなかった。ただ、そこに文字があった。縦書きに、三行。筆で記したような、古めかしい字体で。

 紬は布団の上に起き上がり、両手で右手を包むようにしながら、文字を読もうとした。

 読めなかった。

 書かれているのは日本語のはずだった。漢字と、仮名が混じっているようにも見えた。しかし文字の形が、紬の知っている文字とわずかにずれていた。崩し字、と呼ぶには崩れすぎていた。古い時代の書き方なのかもしれない、と紬は思った。

 夢の中で人形が刻みつけてきたもの。

 朔先生なら、読めるだろうか。

 紬はそう考えた瞬間、自分が自然に朔の名前を思い浮かべたことに気がついた。昨日の放課後、母のことを話したとき、朔は黙って聞いていた。うなずくだけで、何も言わなかった。でも紬には、その沈黙が軽くなかったことがわかった。

 人形は言っていた。夢の中で。

 もうすぐ彼が来る、と。

 来る、というのは、どういう意味だろう。朔はもうここにいる。村に来ている。教室にいる。なのに人形は「もうすぐ」と告げた。

 来るべき場所に、まだ来ていない、ということだろうか。

 紬は右手を胸に押し当てた。文字が書かれた手の甲が、服の生地に触れる。冷たい部屋の中で、その部分だけが微かに温かかった。

 窓の外で、雪が降り始めていた。

 白妻村の朝は静かだ。どんな朝も、どんな夜も、村は静かに雪を受け取り続ける。百年前も、そうだったのだろう。婚礼衣装を着た少女が、誰にも届かない声で何かを叫んでいたとき、村は同じように静かだったのだろう。

 紬は立ち上がった。制服に着替えながら、右手の文字が消えないよう、袖で覆うように気をつけた。

 これを朔先生に見せなければならない。

 そう思いながら、紬は口の中で、夢の感触をもう一度たどった。終わりと続きが、同じ場所に重なって浮かんでいた。人形が何を訴えていたのか、紬にはまだわからない。わからないまま、雪の中を学校へ歩いていくことになる。

 右手に、古い言葉を刻んで。

花嫁人形と、溶けない雪の村

25

人形の声

氷室 宵子

2026-06-06

前の話
第25話 人形の声 - 花嫁人形と、溶けない雪の村 | 福神漬出版