蛭田志津の家を辞したのは、もう日が傾きかけた頃だった。
朔は雪を踏みしめながら、学校の宿舎へと戻る道を急いだ。手の中には、志津が最後に押しつけるように渡してきた古い帳面がある。蛇腹に折りたたまれた和紙を糸で綴じたそれは、表紙の文字がほとんど滲んで読めなくなっていたが、志津はただ「これが全てです」とだけ言った。目には何も宿っていなかった。語り尽くした者の、空虚な静けさだった。
宿舎に戻り、石油ストーブに火を入れる。橙色の炎が揺れて、四畳半の部屋をぼんやりと照らした。朔は机に帳面と古文書を並べた。古文書は先日、学校の倉庫の奥から発見したものだ。村の草創期に書かれたとおぼしき、黄ばんで縁が崩れかけた文書。志津の帳面と、照らし合わせてみる必要があった。
最初の数ページを開いた瞬間、朔は息を呑んだ。
帳面に記されていたのは、志津自身の手書きではなかった。もっと古い、震える筆跡で記された写しだ。志津がいつかの時点で、原本から書き写したのだろう。紙の劣化とは裏腹に、字は几帳面に並んでいた。まるで何かに憑かれたように、丁寧に、丁寧に。
朔は古文書と帳面を交互に読み比べながら、紙片に走り書きをしていった。
白妻村の始祖は、百年以上前にこの地へ移り住んだ一族だ。山深く雪の多いこの土地で生き延びるために、彼らは山の神と「契約」を結んだ。その代償として差し出されたのが、一人の少女――桃。
だが、文書を読み進めていくうちに、朔はある事実に気づいて手を止めた。
桃は単に「生贄として捧げられた」わけではなかった。
文書にはこう記されていた。
――器に魂を留め置き、その熱をもって雪国の命脈を繋ぐべし。十六年ごとに若き女の生命力を注ぎ、契約を新たに更新すること。注がれた命は消えるのでなく、器の中で桃の魂と溶け合い、次の十六年を支える礎となる――
朔は椅子の背に体を預け、天井を見上げた。
生命力の「注入」。十六年ごとの「更新」。
頭の中で、数字がひとつ弾けた。
十六年。十六歳。
紬は今年、十六歳だ。
偶然ではない。最初からそういう仕組みだったのだ。十六歳という年齢は、選ばれる条件ではなく、契約の構造そのものに組み込まれた数字だった。まだ穢れのない、しかし充分に育った生命力。その臨界点が、十六という歳なのだと文書は説く。
朔はペンを置き、両手で顔を覆った。
これは呪いではない。いや、呪いなのかもしれないが、それ以上に――これは設計だ。
百年前の誰かが、緻密に、恐ろしいほど合理的に組み上げた仕組み。山の神との契約を、十六年という周期で永続させるための機構。花嫁人形はその「器」であり、桃の魂はその「核」だ。そして十六年に一度、新しい少女の生命力が注がれることで、器は満たされ、村は守られる。
村の冬が、異常なほど厳しくても、人々が死ななかった理由。
飢饉の年も、疫病の年も、白妻村だけは生き延びてきた理由。
全て、この契約のためだったのか。
朔は帳面の中程を開いた。志津の書き写しの途中に、小さな字で注釈が加えられていた。これは志津自身の文字だ。震えていて、何度も書き直した跡がある。
――姉が消えた年の翌冬、村人が七人風邪で死んだ。子供が三人。老人が四人。それ以前の百年で、冬に死者が出たことは一度もなかった――
朔は目を閉じた。
志津が人形を隠した年。子供十七人が死んだという惨劇の前夜に、すでに契約の綻びは始まっていたのだ。更新が止まれば、村への加護も止まる。山の神との契約は、双務的なものだった。少女の生命力を差し出す限り、村は守られる。しかし、差し出すことをやめた瞬間、山は容赦しない。
外では風が唸り始めていた。窓の向こうで、雪が斜めに流れているのが見える。白妻村の夜は、いつも唐突に深くなる。
朔は古文書に戻り、最後のページを読んだ。そこには「契約の解除」についての記述があるはずだと、直感していた。このような精緻な仕組みを組み上げた者が、解除の方法を記さないはずがない。機械には必ず、止め方がある。
文字は細く、かすれていた。朔はストーブの前に膝をつき、炎の明かりで照らしながら読んだ。
――終わらせんと欲する者は、器に宿る桃の声を聞くべし。桃が己の意志で「去る」と告げ、血筋の者が「返す」と応えたとき、契約は正式に解かれる。ただし、その言葉は始祖の血を引く者の口から出でなければ、山の神は聞き届けぬ――
「始祖の血を引く者」。
その言葉を読んだ瞬間、朔の背筋を何かが走り抜けた。冷たいのか、熱いのか、判別できないものが。
幼い頃、母方の祖母から聞かされた話がある。「うちはもともと遠い山の村の出でね」という、何気ない言葉。祖母の旧姓を、朔は今まで気に留めたことがなかった。
白瀬、という名前。
いや、違う。白瀬は父方の姓だ。母方は――
記憶を手繰る。母の旧姓は、確か――
朔は立ち上がり、引き出しを開けた。赴任の際に持参した戸籍謄本の写しを、震える手で引っ張り出す。目が、母の欄を探す。
父・白瀬洋一。母・白瀬(旧姓・綾部)澄。
綾部。
部屋の空気が、一瞬で別の質量を持ったように感じた。
綾部透。紬の叔父で、祭祀を取り仕切る男。彼もまた「綾部」だ。
朔は床に膝をついた。ストーブの火が揺れる。外の風が壁を叩く。
自分は、この村と繋がっていた。
いや、繋がっていたのではない。もともと、この村の血を引く者だったのだ。そしてその血が、契約を解除できる「始祖の血」であるなら――
全てが一本の線に繋がっていく感覚があった。なぜ自分がこの村に赴任することになったのか。偶然の辞令だと思っていた。だが本当に偶然だったのか。それとも、百年の時をかけて、契約そのものが朔をここへ引き寄せたのか。
解決の糸口が見えた。そのはずだった。
しかし朔はすぐに、別の文章を思い出した。
志津が語った言葉。「止めれば同じ惨劇が繰り返される」。
契約を解除すれば、村への加護は完全に失われる。十六年ごとの更新を止めるだけで、あれほどの死者が出た。正式に解除すれば、何が起きるのか。
紬を救うことと、村を守ること。
その二つは、両立しないかもしれない。
朔は帳面の最後のページを開いた。そこには、志津の筆跡でこう書かれていた。まるで朔が来ることを知っていたように、未来の誰かへ宛てた言葉として。
――あなたがこれを読むとき、桃はもう限界に近いはずです。器が溢れるとき、次の娘は器そのものになります。命を注がれるのではなく、命ごと、器に変わる――
朔は、その一文を何度も読み返した。
「器に変わる」。
生命力を注がれるだけでなく、紬そのものが花嫁人形に成り代わる。次の百年の「器」として。
儀式の日まで、あと何日残っているのか。
窓の外で、風がひときわ強く吹いた。雪が窓硝子を叩く音が、まるで誰かの指先のように聞こえた。