夜が最も長くなる日まで、あと二週間だと、朔は壁の暦を見ながら考えた。
囲炉裏の火は落としてあった。灰の中にかすかな熱がのこっているだけで、教員住宅の一室は静まり返っていた。古文書の写しと志津の帳面とを並べたまま、朔は眠れずにいた。母の旧姓が綾部だという事実は、眠りの入り口を塞ぐ石のように、意識の奥底に重く沈んでいた。
自分がこの村の血を引いている。
そのことが何を意味するのか、頭ではもう理解していた。始祖の血を持つ者だけが「返し言葉」を紡ぐことができる。志津の帳面にはそう書かれていた。呪いを終わらせる義務は、呪いそのものと同じ年月をかけてある血筋に受け継がれてきた。そしてその末端が、よりによって都会から流れ着いた自分だったとは。
朔は目を閉じた。
その夜、紬は夢を見ていた。
*
白い。
どこまでも白い場所だった。雪ではなかった。紬はそれを確信していた。雪にはかならず重さがある。踏めば沈む。冷たさが足の裏から這い上がってくる。けれどもここは違った。白さだけがあって、重さもなく、冷たさもなく、ただ光のような静けさがあった。
夢の中に入るのは、これで何度目だろう。
最初の頃は恐ろしかった。人形が自分を見ている感覚。誰かの視線が首筋に貼り付いて離れない感覚。だが今夜は違った。怖くなかった。なぜ怖くないのかも、紬にはわかっていた。
少女がいた。
白い地の中に、ひとりで立っていた。紬より幼い。十二か十三か、そのくらいに見えた。着物は婚礼装束で、白い綿帽子をかぶっていた。顔が見えなかった。うつむいているせいではなく、顔の輪郭そのものがぼんやりとして、焦点が合わないように曖昧だった。
それでも紬は、この子が誰なのか知っていた。
「桃」
紬が名を呼ぶと、少女の肩がわずかに揺れた。
「……知ってるの」
声は小さかった。子どもの声のはずなのに、どこか遠い場所から届くように聞こえた。長い時間を渡ってきた声のように思えた。
「知ってる」と紬は答えた。「朔先生が調べてくれた。あなたが百年前に奉納された最初の子だって」
少女は動かなかった。しばらく沈黙が続いた。白さが揺れるように、ゆっくりと明暗を繰り返した。
「終わらせてほしい」
桃が言った。
「ずっと待ってた。終わらせてほしいって、ずっとずっと言ってた。でも誰にも聞こえなかった。聞こえても、みんな怖くて、怖くて逃げていった」
「私に聞こえてる」
「知ってる」
桃の声は静かだった。悲しんでいるとも怒っているとも受け取れない、ただ疲れたような声だった。百年分の疲れがあるとしたら、きっとこういう声になるのだと、紬は思った。
「どうすればいいの」と紬は聞いた。「終わらせるために、私は何をすればいい」
桃はうつむいたまま答えなかった。紬は続けた。
「私が人形に魂を捧げればいい? そうすれば終わる?」
沈黙が落ちた。
今度の沈黙は、少し違った。少女の肩が下がった。白い綿帽子の縁がかすかに震えた。そして桃は首を横に振った。はっきりと、ゆっくりと、二度。
「違う」
声が少し変わった気がした。初めて何かが滲んでいた。
「そうじゃない。そんなことをしてほしいんじゃない。私はもう、誰かに代わってほしくない。誰かに続いてほしくない。終わらせてほしいって、そういう意味なの」
紬の胸に、何かが突き刺さった。
「百年間、続いてきた。十六年ごとに誰かが来て、また繋がれて、また続いていった。みんな私の代わりになったわけじゃない。でも私がいる限り、続いていく。私がここにいる限り、この縛りは終わらない」
「じゃあ」
「解いてほしいの」
桃の言葉は静かで、しかし揺るがなかった。
「私を、ちゃんと終わらせてほしい。契約を最初からなかったことにしてほしいんじゃない。ただ、正しく終わらせてほしい。始まりに返してほしい」
紬は息を吸った。白い空気が肺に入ってきた。
「それができる人がいる」と桃は続けた。「血を引いた人が言葉を返せば、私は終われる。ちゃんと終われる」
「朔先生のこと」
「知ってる人がいるって、わかってた。ずっとわかってた。でも怖かった。本当に終われるか、怖かった」
紬は少女を見た。曖昧な輪郭の向こうに、何かがある気がした。百年前の夏の日差しのような、遠い懐かしさのようなものが。
「怖くない?」と紬は聞いた。「終わることが」
桃はしばらく黙っていた。
それから、綿帽子がほんのわずかに持ち上がった。輪郭のぼやけた顔が、少しだけ上を向いた。
「怖い」と桃は言った。「でも疲れた。もっと疲れた」
*
紬が目を覚ましたのは、夜明け前だった。
天井の木目が、薄明かりの中でゆっくりと浮かび上がってきた。布団の中で、紬は長いあいだ動かなかった。夢の感触が体の中にのこっていた。白い場所の空気が、まだ肺のどこかに残っているような気がした。
桃の声が耳の中で繰り返された。
怖い。でも疲れた。もっと疲れた。
紬は瞬きをした。
頬が濡れていた。
自分が泣いているのだと気づくまでに、少し時間がかかった。涙が出ているという実感がなかった。痛くもなく、苦しくもなく、ただ静かに何かが溢れていた。目の端から、温かいものがこめかみを伝って枕に吸い込まれていった。
紬は泣き方を知らなかった。
物心ついた頃から、この村で泣くことを誰かに禁じられた覚えはなかった。けれどもいつの間にか、泣かない人間になっていた。叔父の目が怖かったのかもしれない。花嫁人形の話を初めて聞かされた夜も、自分が選ばれたと告げられた朝も、紬は泣かなかった。泣くべき場所がどこかわからなかったから。泣くことの意味が、自分の中のどこにも見つからなかったから。
でも今は、泣いていた。
桃のために泣いているのか、自分のために泣いているのか、紬にはわからなかった。わからなくてもいい気がした。百年前に終わるべきだったものが終わっていなくて、そのことをずっと疲れながら待ち続けた少女がいたということ。そのことが、ただ悲しかった。
紬は布団の中で膝を抱えた。
声を立てなかった。すすり泣きもしなかった。ただ静かに、体の奥から何かが溶けていくように、涙だけが流れ続けた。
長い時間が過ぎた。
やがて涙が止まった。止まったとき、紬は少しだけ軽くなった気がした。何かを手放したわけでも、何かが解決したわけでもない。けれどもどこか、ほんの少しだけ、体の中に隙間ができたような感じがした。
紬は起き上がった。
窓の外、山の稜線が白く滲んでいた。夜明けの雪雲が空を覆っていた。冬至まで、あと十四日。
紬は立ち上がり、着替えた。それから文机の引き出しから便箋を一枚取り出した。筆を持つ手が、かすかに震えていた。震えていることに気づいて、紬は少し不思議な気持ちになった。自分の手が震えるということが、昨日までの自分には想像できなかった。
紬は便箋の中央に、ゆっくりと文字を書いた。
先生に、話があります。
それだけ書いて、紬は筆を置いた。窓の外で、雪がまた降り始めていた。細かく、静かな雪だった。白妻村の朝は、いつもこうして始まる。音もなく、静かに、容赦なく。
でも今朝は、何かが違った。
紬には、行く場所があった。