その夜、志津の家に灯りが点いたのは、もう日付が変わろうかという時刻だった。
朔が紬を送って村の宿舎に戻り、上着を脱ぐ間もなく外に出たのは、何かに引き寄せられる感覚があったからだ。理屈ではない。雪の匂いとも違う、もっと古い何かが、村外れへと向かう坂道を示していた。
蛭田志津の家は、村の他の家々と少しだけ佇まいが違う。軒先に吊るされた縄の編み方、戸口の脇に置かれた小石の並べ方。どれも、朔には意味が読めない。しかし確かに、何かを「告げている」ように見えた。
引き戸を叩くと、返事の代わりに鍵の外れる音がした。
「来ると思っとったよ」
囲炉裏の前に座った志津は、膝の上に両手を重ね、朔を見ることなくそう言った。炭火の赤が老婆の顔に影を作り、深く刻まれた皺の奥に何かが揺れているように見えた。
「紬さんから話を聞きました。夢の中のことを、すべて話してくれると言って」
朔は上がり框に腰を下ろし、志津との間に慎重に距離を置いた。この老婆は、近づき方を誤ると貝のように閉じる。それがこの数週間でわかったことの一つだった。
「そうか」と志津は言った。「その子もようやく覚悟が決まったんじゃな」
「志津さん」
朔は言葉を選ぶように少し間を置いた。
「あなたが六十年間、この村にい続けたのは、何かを探していたからですか」
囲炉裏の火が、小さく爆ぜた。
志津はしばらく黙っていた。膝の上の手が、わずかに動いた。関節の太くなった指が、互いを確かめるように動く。
「探しとった、というより」志津はゆっくりと言った。「待っとったというほうが正しいかもしれん」
「何を」
「呪いを終わらせられる者を」
その言葉が、朔の背筋に細い針を刺した。
「わたしはな、若い頃に一度、止めようとしたことがある。お前さんも聞いとるじゃろ」
朔は頷いた。志津がかつて儀式の「乗っ取り」を試みて失敗し、その代償として何かを失ったという話は、村の古い記録の断片から拾い集めていた。しかし詳細は誰も語らなかった。
「あのとき、わたしは間違えた。儀式の途中で横から割り込んで、人形を壊そうとした。そうすれば桃の魂が解放されると思っとったから」
桃。百年前に花嫁として奉納された少女の名を、志津は初めて朔の前で口にした。
「うまくいかなかった」
「ああ。壊れんかった。人形は壊れん。あれは器じゃない。器と魂が、契約によって結ばれとる。契約を破ることはできても、それでは桃は解放されん。ただ傷つくだけじゃ」
志津の声に、何か古い痛みが混じった。朔はその声の質感を聞きながら、この老婆が六十年間抱えてきた重さの一端に触れた気がした。
「では、どうすれば」
「正式に、果たすことじゃ」
志津は初めて朔のほうを見た。囲炉裏の赤い光の中で、その目が光る。
「桃はな、呪いをかけたかったわけじゃない。あの子は、約束を求めとったんじゃ。百年前に、奉納の儀式の中で、誰かと交わした約束が果たされないまま今日まで来ておる」
「約束」朔は繰り返した。「何の約束を」
「それは」志津は静かに言った。「わたしにはわからん。桃だけが知っておる。あるいは、血筋を引く者だけが知っておる」
朔の心臓が、一拍だけ強く打った。
「血筋を、引く者」
「白瀬の家の者じゃよ」
炭が崩れる音がした。火の粉が一つ上がって、消えた。
朔はその言葉を受け止めるのに少し時間が必要だった。自分がこの村に血縁を持つかもしれないという可能性は、この数週間でかすかに意識し始めていた。しかしそれが、呪いそのものと直接結びついているとは。
「わたしが、白瀬の家の者だとすれば」
「お前さんの中に、引き継がれとるものがあるはずじゃ。言葉じゃ」
「言葉」
「返し言葉、とわたしは呼んどる。呪いをかけた側が、桃と交わした約束を正式に終わらせるための言葉じゃ。契約を結んだ者の血筋にしか、使えん」
朔は両手を膝の上に置き、掌を見つめた。自分の手の中に、そのような言葉が眠っているとは思えなかった。しかし同時に、幼い頃に封じた記憶の中に、何かがある予感がした。「見てはいけないもの」を見た、あの夜の記憶の奥に。
「わたしが六十年間探しとったのは、その言葉を持つ者じゃ。白瀬の血を引き、その言葉を呼び覚ます力のある者」
「なぜ私だと」
「お前さんが来た日に」志津は言った。「雪が止んだ」
朔は言葉に詰まった。
「この村では、冬に雪が止む日はほとんどない。それがお前さんが来た日だけ、夕方の一刻だけ、ぴたりと止んだ。わたしは窓から見ておった。そういうことじゃ」
合理主義者の朔には、それを証拠と呼ぶことができなかった。しかし否定もできなかった。この村では、合理の刃が届かない領域がある。その事実には、もう慣れていた。
「志津さん」朔は言った。「あなたは六十年間、誰かがその言葉を持ってくるのを待ちながら、それでも諦めなかった。なぜ」
老婆はしばらく黙った。
それから、ゆっくりと言った。
「桃が、まだ苦しんでおるからじゃ」
その声は静かだったが、六十年分の重さがあった。朔はその重さを、胸の奥で受け取った。
「わたしは若い頃に、一度桃の夢を見た。ほんの一瞬じゃったが。泣いとった。花嫁衣装のまま、ずっと泣いとった。その顔が、六十年間忘れられん」
炉の火がまた爆ぜた。今度は静かに、小さく。
朔はゆっくりと立ち上がった。膝の泥を払うような仕草で、自分の中に生まれた何かを確かめた。希望と呼ぶには細すぎる、しかし確かに光を持った何か。
「その言葉の、探し方を教えてください」
「それはまだ言えん」志津は首を振った。「お前さん自身が、まず封じた記憶を開かなければならん。言葉はその中にある。わたしが教えられるのは、入り口だけじゃ」
「入り口」
「紬の夢の話を聞いてからでないと、わたしも開けられん扉がある」
朔は頷いた。すべてが繋がっている。紬が夢で見ているものと、朔が封じた記憶と、志津が六十年間持ち続けた知識が、一つの場所へ向かって集まろうとしている。
「明日、紬さんを連れてきます」
「うむ」志津は再び囲炉裏へと目を戻した。「ただ、急げ。お前さんが村に残っていることは、透の耳にも届いておる。あの男は次の手を打ってくるはずじゃ」
朔は戸口で振り返った。
「志津さん、一つだけ」
「なんじゃ」
「あなたは、これで終わると思いますか」
老婆は長い間、答えなかった。炉の火が揺れ、影が壁を這った。
やがて志津は、ほとんど独り言のように言った。
「六十年間、終わると信じてきた。それだけは変わっとらん」
朔は引き戸を開けた。外には変わらず雪が降っていた。しかし今夜、その白さが以前とは少しだけ違って見えた。諦めの色ではなく、何か別の、名前のない色に。
坂道を下りながら、朔は掌を開いた。その中に、まだ眠っている言葉があるとすれば。百年分の約束を果たす言葉が、自分の血の奥に刻まれているとすれば。
記憶の扉は、まだ閉じている。しかし確かに、その向こうで何かが動いていた。