電話が鳴ったのは、朔が職員室で採点をしていた午後三時のことだった。
外は白一色だった。昨夜から降り続いた雪が窓枠まで積み上がり、光が斜めに落ちるだけで景色らしい景色はどこにもない。分校の職員室には朔ひとりで、ストーブの赤い炎だけが生きているもののように揺れていた。
「白瀬先生でいらっしゃいますか」
受話器の向こうの声は、聞き慣れない抑揚を持っていた。市の教育委員会、指導主事の肩書きを名乗った男は、丁寧すぎるほど丁寧な口調で言葉を続けた。
「このたびは先生のご健康とご意向を慮りまして、ご連絡申し上げた次第です」
慮る、という言葉の奇妙さに朔は一瞬引っかかりを覚えた。慮られた覚えは、まるでなかった。
「先生には白妻分校にお勤めいただいておりますが、積雪期の道路状況や生活環境など、さぞ過酷な状況かと存じます。つきましては、一身上の都合による転勤という形で、来月初旬を目途に市内本校への異動をご検討いただけないかと思いまして」
一身上の都合。
朔はその言葉を口の中で転がした。都合など、何もない。健康に問題があるわけでも、家庭の事情があるわけでもない。ただそこにいるだけだというのに、その「いるだけ」を摘み取るための言葉として使われている。
「検討というのは」と朔はなるべく穏やかに言った。「断る余地がある、ということでしょうか」
受話器の向こうで、わずかな沈黙があった。
「もちろん、最終的にはご本人の意向を尊重いたします。ただ、地域の管理委員会からも、先生の負担を懸念するご意見をいただいておりまして」
管理委員会。
その言葉が引き金になった。朔の胸の内で何かが静かに形を取り始める。透だ、と思った。確認するまでもなかった。綾部透が動いたのだ。公的な手続きという名の道具を使って、朔という存在を村から押し出そうとしている。
「少し時間をいただけますか」と朔は言った。「一週間で、返答いたします」
電話を切ると、職員室は再び静まり返った。ストーブが低く唸り、窓の外で雪が舞っている。一週間後、この景色は変わらないだろう。変わるのは自分がそこにいるかいないかだけだ。
机の上の採点用紙を見つめた。紬の字があった。几帳面な、小さな字で問いに答えが書かれている。句読点のひとつひとつが、まるで迷いを殺して打たれたみたいに正確だった。
朔は目を閉じた。
志津の家で聞いた話が耳の奥で蘇る。白瀬家が本家だということ。人身御供を担った一族だということ。祖父が人形を持って村を去ったこと。そして朔の赴任が、血に引き寄せられたものかもしれないということ。
逃げるのは簡単だった。一身上の都合という言葉を呑み込み、書類に名前を書けばいい。市内のどこかに部屋を借りて、春になれば桜が咲くような場所で暮らせばいい。白妻村のことは、夢だったと言い聞かせることもできるかもしれない。
だがそのとき、紬はどうなる。
花嫁人形に選ばれた少女は、選んだ者が誰もいなくなった部屋の中で、ひとりで夢を見続けることになる。それを止める言葉を、朔は血の中に持っている。志津はそう言った。
朔は椅子を引いて立ち上がった。気づけば外は暗くなりかけていた。下校の時刻はとうに過ぎている。子どもたちはもう帰ったはずだった。
廊下に出ると、非常口のそばの小窓から夕暮れが差し込んでいた。橙色の光が白い廊下に溶けて、足元だけが妙に暖かく見えた。朔はコートを取りに教室へ戻ろうとして、足を止めた。
廊下の端に、人が立っていた。
紬だった。
制服のまま、荷物を肩に掛け、壁にもたれるでもなく、ただまっすぐに立っている。その目が朔を見ていた。いつもと同じ、感情の色を削ぎ落としたような目だった。だが今日はその奥に、何か別のものが潜んでいるように見えた。
「帰っていなかったのか」と朔は言った。
紬は答えなかった。ただ朔を見続けている。
朔はゆっくりと歩み寄った。近づくにつれて、紬の呼吸がわずかに乱れているのがわかった。胸のあたりで両手を握り、唇を一度きつく結んでいる。何かを言おうとして、言えずにいる。それが初めて朔にもわかった。
「紬」
名前を呼ぶと、少女の目が揺れた。
「……聞こえていました」
小さな声だった。廊下の静寂が吸い込んでしまいそうなほど小さく、それでいてはっきりと届いた。
「電話の声が、職員室から漏れていたので」
朔は息を吐いた。隠すつもりはなかったが、聞かせるつもりもなかった。紬は続けた。
「叔父さんが動いたんだと思います。前にも、村に来た人が急にいなくなったことがあって。やり方は同じでした」
前にも。その言葉の重さに、朔は少し黙った。
「先生」
紬が一歩、朔の方へ踏み出した。それは小さな一歩で、床板が一度だけ鳴いた。ただそれだけのことが、朔には大きな動作に見えた。この少女がこれほど自分から距離を詰めてきたことは、赴任してから一度もなかった。
「逃げないでください」
言葉は短かった。懇願でも命令でもなく、ただそこに在る事実を口にするような静けさがあった。だからこそ、朔の胸を深く抉った。
「逃げたら、誰もいなくなります。私の夢に、今も人形が来ます。先生のことを見ている気がして、それが怖くて。でも先生がいなくなったら、もっと怖いです。私はそれが一番怖い」
紬の声は最後まで乱れなかった。だがその目に、薄く光るものが浮かんでいた。涙ではないかもしれない。あるいは涙になる前のもっと奥にある何かが、表面に滲んでいるだけかもしれない。
朔は少し考えてから、言った。
「逃げない」
紬の目が、わずかに大きくなった。
「逃げない。書類には名前を書かない。ここにいる。それだけははっきり言える」
廊下の窓の外で、雪がまた降り始めていた。白い粒が夕闇に溶けながら落ちてくる。この雪は春になっても消えない、と誰かが言っていた。山の奥にはいつまでも残る雪があって、それは百年前から同じ場所にあり続けているのだと。
「ただ」と朔は続けた。「俺が本当にできることをするためには、もう少し時間が要る。志津さんにも、もう一度話を聞かないといけない。そして紬、お前にも聞かなければならないことがある」
「なんですか」
「人形が夢の中で、何を見せているか。今まで俺に話してくれていないことが、まだあるだろう」
紬は長い沈黙の後、小さく頷いた。それは返答というより、自分自身への確認のような動作だった。
「……話します。全部」
その言葉の中に、朔は決意と恐怖が同時に溶け合っているのを感じた。紬がずっと一人で抱えていたものの重さが、たった二文字の中から漏れ出してくるようだった。
ストーブが廊下まで届かない職員室で、電話はもう鳴っていない。だが透の手が引いた糸は、まだ空中に張り巡らされたままだ。一週間という猶予の中で、朔が動けなければ、制度という名の壁が静かに彼を押し流す。
朔は窓の外の雪を見た。降り積もる白の向こうに、この村の何百年分もの沈黙が埋まっている気がした。その沈黙を、自分の言葉でひとつだけ破らなければならない。それがどんな言葉なのか、まだわからない。だが今夜、紬の話を聞くことで、その輪郭が少し見えてくるかもしれない。
廊下の電灯が一度、微かにちらついた。