夜明けの光がまだ薄い刻限のことだった。
澄乃は縁側に立って、白んでいく空の端を眺めていた。昨夜から風が強く、庭の松の枝が低く唸るような声を上げ続けていた。眠れなかったのは風のせいばかりではなかった。朱乃、と心の中で名を呼ぶたびに、喉の奥に何か熱いものが溜まるような感覚があって、それが散じるまで布団に戻る気になれなかったのだ。
——慶応年間に消息を絶った公家の姫。
哲三が図書館の古記録から掘り起こしてきたその名は、もはや澄乃にとって他人のものではなかった。夢の中で何度となく届いた声、水底に沈むような静けさと、それでいて胸を引き裂くほどの哀切さを持ったあの声は、確かに一つの名を持っていた。朱乃。百年前に果たされなかった誓いを抱えたまま、どこへも行けずにいた魂の名を。
風が庭を横切り、袖を膨らませた。
そのとき、澄乃は気づいた。
蔵の方から、何かがきしむような音が聞こえてくる。
柊屋の蔵は母屋の奥、桐の古木を二本従えた場所に建っている。頑丈な錠前と、女子衆には近づくことすら許されないという不文律とで守られた、あの蔵だ。澄乃はこれまで何度か前を通ったことはあったが、その扉が開いているところを見たことはなかった。
急いで草履をつっかけ、縁を下りた。
近づくにつれ、きしむ音は間違いなく蔵の扉の立てるものだとわかった。重い木の扉が風に押されて、半ば口を開いている。錠前は——外れていた。夕べの嵐が何かを緩めたのか、それとも、と澄乃は思う。それとも、そうなるように仕向けた力があったのか、と。
引き返すべきだとわかっていた。奉公の身でありながら主家の蔵に断りなく踏み込むなど、理由がどうあれ許されることではない。それでも足は止まらなかった。朱乃の声が聞こえるわけではなかった。ただ、胸の中心に細い糸が通っていて、その先端が蔵の闇の奥に繋がれているような、確かな引力があった。
扉を引いた。
黴と、古い絹の匂い。そして、かすかに、どこかで嗅いだことのある甘い香——白檀だろうか——が、澄乃を包んだ。
蔵の内は薄暗く、棚が幾重にも並んでいた。反物の巻かれた棒、漆の箱、桐の引き出し。柊屋が幾十年もかけて積み上げてきた商いの歴史が、息をひそめて立ち並んでいる。澄乃は棚の間を、手を伸ばせば触れてしまいそうな距離を保ちながら、奥へ、奥へと進んだ。
最奥の棚の前に、それはあった。
三段の台座に据えられた、白無垢姿の花嫁人形だった。
高さは一尺あまり。白い小袖に白い打掛、白い綿帽子。しかし綿帽子はわずかにずれていて——そこだけが、まるで人が動いた後のように——顔の半ばが露わになっていた。
澄乃はゆっくりと歩み寄り、正面に立った。
その瞬間、息が止まった。
父の書斎にある、一枚の肖像画が脳裏に甦った。澄乃が幼い頃から見慣れた、公家の装束をまとった若い姫の絵。誰の絵かと問うたとき、父が短く「遠い親戚だ」とだけ答えて話題を変えた、あの絵。細い鼻梁、やや伏せがちな目の形、口元の微かな憂い——。
花嫁人形の顔は、その肖像画の姫と、寸分も違わなかった。
これは偶然ではない。澄乃の中で、理性が形を失い、確信だけが残った。この人形は朱乃だ。百年前に柊家との縁を結べぬまま消えた姫が、この白無垢の身のうちに宿っている。
身震いが走った。
背骨の奥から来るような震えで、寒さとは違う。恐怖とも違う。もっと根の深いところから来るもの——そう、まるで自分の血の奥底で、何かが目を覚ましかけているような震えだった。澄乃は両の手で自分の肘を抱いたが、震えは収まらなかった。
人形の目は、漆黒だった。
ガラス玉でできた、光を映さない黒い瞳。それが今、かすかに——澄乃にはそう見えた——かすかに、濡れているように見えた。
「——何をしている」
背後から声が落ちてきた。
澄乃は飛び上がるように振り返った。
蔵の入り口に、柊一郎が立っていた。
まだ寝間着の上に羽織を一枚引っかけただけの姿で、髪も乱れている。しかしその目だけは、ひどく醒めていた。冬の川面のような色をした目が、澄乃を見ていた。いや、澄乃の向こうにある花嫁人形を見ていた。
澄乃はすぐには言葉が出なかった。
「見てはならぬ」とも「出て行け」とも言われると思っていた。しかし一郎は動かなかった。扉枠に手をかけたまま、その目を澄乃と人形の間で行き来させていた。その表情に、澄乃は奇妙なものを読み取った。怒りではなく——困惑でも、警戒でもなく——何か、長年しまい込んでいた疑問が唐突に形を持ってしまったような、そういう顔だった。
「人形の顔を、見たか」
一郎が言った。問うというよりも、確かめるように。
「はい」
澄乃は静かに答えた。嘘をつく気になれなかった。この場所で、この人形を前にして、嘘は何かを冒涜するように思えた。
「どう見えた」
「——知っている顔でした」
一郎の目が細くなった。
「知っている、とは」
「父の書斎に、肖像画があります」
声が震えないよう、澄乃は一語一語を確かめながら言った。
「公家の装束を着た若い姫の絵が。その顔と、この人形の顔は——同じです。一点の違いもなく、同じでした」
沈黙が蔵の中に満ちた。外では風がまだ鳴いていたが、ここには届かなかった。
一郎はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと蔵の中に入ってきた。一歩、また一歩と足を進め、澄乃の隣に並んだ。二人は並んで、白無垢の花嫁人形を見た。
一郎が息を吐くのが聞こえた。それはため息というよりも、長く押し込めていた何かを、ほんの少しだけ解き放つような音だった。
「この人形は、俺が幼い頃からここにある」
独り言のように、一郎は言った。
「蔵に入るたびに、見るたびに、同じことを思っていた。この顔は、どこかで見たことがある、と」
澄乃は一郎の横顔を見た。硬い輪郭の中に、今だけは子どものような困惑が滲んでいた。
「俺には、思い出せなかった。どこで見たのか。——だが、お前には、わかるのか」
「わかります」
澄乃は人形に向き直った。
朱乃、と心の中で呼びかけた。あなたはずっとここにいたのですね、と。百年、この蔵の奥で、白無垢のまま、果たされなかった誓いを抱えたまま。
「この人形に宿っているのは、朱乃という名の姫です」
澄乃はゆっくりと言った。
「慶応の年に、柊屋との縁組が破談となり、消息を絶った——私の先祖の姫です」
一郎は動かなかった。しかし澄乃は感じた。その沈黙の質が変わったことを。薄い氷が、ひびを入れたような瞬間を。
人形の黒い瞳が、相変わらず光を映さずにいた。
その奥に何があるのか、澄乃にはまだわからない。ただ、もう一度あの身震いが背筋を走り、今度は消えずに長く尾を引いた。これは恐怖ではない、と澄乃は思った。
これは、目覚めの震えだ——。
一郎が、静かに口を開いた。
「お前は、何者だ」
その問いは短かったが、澄乃が奉公に上がった日から、いつかは来ると知っていた問いだった。