嵐の名残が、蔵の中にまだ漂っていた。
雨に濡れた土の匂いと、古い絹の香りとが交じり合い、澄乃の息の根を締めるように空気が重い。柾木の床板に膝をつき、白無垢の花嫁人形を両腕で抱えたまま、澄乃は動けずにいた。背後に一郎の気配がある。足音もなく近づいてくる、その沈黙が恐ろしかった。
怒声が来るならまだいい。叱責の言葉が来るなら、それに応じることができる。だが一郎は何も言わなかった。ただ、畳一枚ほどの間合いで立ち止まり、澄乃と人形とを等しく見下ろしている。その眼差しの色を、澄乃は振り返って確かめることができない。
雨垂れが、屋根の庇から地面へ落ちる音だけが聞こえた。
「……この人形のことを、知っているか」
低く、静かな声だった。
澄乃はゆっくりと顔を上げた。一郎は薄明かりの中に立ち、洋燈を片手に持ったまま、先ほどと変わらぬ無表情を保っている。ただ、その眼だけが、わずかに違った。問うているのではなく、試しているのでもない。まるで、答えをすでに知っていて、それでも誰かの口から聞かされることを恐れているような——そんな色が、奥に揺れていた。
「はい」
澄乃は答えた。声が震えないよう、腹の底に力を入れて。
「この人形は、蔵の奥の唐櫃に仕舞われておりました。鍵もなく、しかし誰かが長く大切にしてきたことが、その保ちようからわかります。そして——」
人形の顔に目を落とす。白磁のような額、糸のように細い眉、静かに伏せた目蓋。この顔を、澄乃は知っていた。父の書斎の奥に掛かっていた古い肖像画、煤けた絵の具の向こうで微笑んでいた女の横顔と、寸分違わない。
「父の書斎に、古い肖像画があります。百年以上前に描かれたものだと、父は申しておりました。そこに描かれた姫の顔と……この人形の顔が、同じなのです」
一郎の眉が、ほんの少し動いた。
「肖像画の姫の名は」
「……朱乃、と」
その一瞬、蔵の中の空気が止まった。
洋燈の炎が揺れた。風が入り込んだわけではない。一郎が、かすかに息を呑んだのだ。澄乃はその音を確かに聞いた。男が、初めて動揺を見せる音を。
「その名を」
声が、低く裂けた。
「……どこで知った」
澄乃は人形を抱いたまま立ち上がった。膝が笑いそうになるのを堪え、一郎の顔を正面から見据える。彼の顔は、洋燈の光の中で青ざめていた。血の気が引いたというより、何か深いところから冷えたような——そんな青白さだ。
「藤原の家に伝わる書きつけに、その名がございます」
嘘は言わない、と澄乃は決めていた。もはや嘘をつける局面ではなかった。
「朱乃様は、私の先祖にあたる方です。幕末の頃、この柊屋の先代と深い縁があったと、書きつけには記されておりました。しかし二人の間に何があったのか、それ以上のことは——」
「縁では、ない」
一郎が遮った。
その声には、澄乃がこれまで聞いたことのない色があった。合理の鎧を纏い、感情を外に出すことを拒んできた男が、今だけは何かを堪えきれずにいる。
「誓いだ」
澄乃は息を止めた。
「誓い……とおっしゃいますと」
「柊屋に伝わる秘録がある。代々の当主だけが読むことを許された、古い書物だ」
一郎はゆっくりと歩み寄り、澄乃の腕の中の人形を見た。その目が、初めて柔らかいものに触れるような色をした。
「幕末のある夜、柊屋の先代——私から数えて曾祖父にあたる男が、公家の姫と誓いを交わした。共に生きることの誓いではない。共に死ぬことの誓いでもない。ただ——この世に残すものを、次の代へと守り伝えることの誓いだ」
「残すもの……とは」
「この人形だ」
一郎の指が、人形の白無垢の袖へと伸びた。触れるかどうかの寸前で止まり、そのまま空中に静止する。
「姫は人形師に命じて、この人形を作らせた。自らの姿を写した花嫁人形を。そして曾祖父に預け、こう言ったと秘録には記してある——『この人形が再び花嫁の姿で陽の下に立てる日まで、誓いは終わらない』と」
澄乃は、胸の奥で何かが鳴るのを感じた。鐘の音に似た、しかし音ではない——振動のようなものが、肋骨の内側を静かに揺らす。
夢の中で見た光景が、蘇る。白い靄の中に立っていた女が、あの穏やかな声で語りかけてきた言葉。
——まだ、終わっていないの。
朱乃だ、と澄乃は悟った。あの夢の声は、この人形に宿る朱乃のものだった。そして朱乃は、澄乃に何かを伝えようとしていた。終わっていない誓いのことを。百年を経てもなお果たされていない、その欠片のことを。
「一郎様」
澄乃は、奉公人として使うべき言葉遣いを忘れていた。ただ、今この人に正直に話さなければならないと、全身が訴えていた。
「私は……夢の中で、朱乃様のお声を聞きました」
一郎の目が、静かに澄乃を捉えた。
「幾度も。この屋敷に上がってから、繰り返し。朱乃様は私に、まだ終わっていないと仰いました。何が終わっていないのか、私にはわかりませんでした。けれど——」
澄乃は人形の顔を見た。伏せた目蓋が、今にも開きそうに思えた。
「この方が私の先祖で、この人形がこの方の魂の依り代であるならば。柊屋に伝わる誓いとやらが、百年経っても果たされていないならば。朱乃様が私に声をかける理由が、ようやくわかる気がします」
蔵の中に沈黙が降りた。
遠くで、雨がまた強くなった。西陣の夜明け前の空は、まだ深い藍色をしているはずだった。夜明けは来ていない。来ていないが、確かに何かが変わろうとしている。蔵の中の空気が、少しだけ——ほんの少しだけ、軽くなったように感じる。
「澄乃」
一郎が、名前を呼んだ。苗字でも、奉公人への呼び名でもなく、ただ名前だけを。
「お前が藤原の家の者であることは、最初から気づいていた」
澄乃は目を見開いた。
「素性を隠して奉公に入った理由は、問わない。今は問う必要がない」
一郎はそう言って、洋燈を傍らの棚の上に置いた。両手が空になる。その手が、一度だけ軽く握られ、また開いた。
「ただ一つ、答えてくれ」
「……はい」
「朱乃様が、お前に伝えたことは——それだけか」
澄乃は、息を吸った。
夢の中の声が、耳の奥で甦る。靄の向こうで微笑んでいた女の顔が、人形の顔と重なる。まだ、終わっていないの。その言葉の続きを、澄乃はまだ聞いていない。廻廊の夢は、いつも同じ場所で途切れる。地下へ続く石段の前で、光が消えて、目が覚める。
「……廻廊の夢を、見ます」
澄乃はゆっくりと言った。
「地の下へ続く石段が、夢の中に繰り返し現れます。朱乃様はその先へ、私を誘っておいでのように思えます。しかし夢はいつも石段の前で——」
言葉を続けようとして、澄乃は気づいた。
一郎の顔が変わっていた。青ざめていたその顔が、今度は別の色をしている。驚きでも怒りでもない。まるで、長い間探していたものの在り処を、ようやく知った者の顔だった。
「廻廊を、知っているのか」
その言葉は問いではなかった。確認だった。
「この屋敷の地下に、廻廊がある。幕末から続く、石造りの通路だ。曾祖父が公家の屋敷と柊屋とを繋ぐために造らせたと、秘録に記してある——誓いを果たすために」
澄乃の心臓が、大きく一度だけ跳ねた。
繋がっている。地下で、この屋敷と藤原の屋敷が。百年前の先祖同士が誓いを交わした夜に、何者かが通った廊下が。そして朱乃が夢の中で澄乃を連れていこうとしていた、その先が。
人形が、腕の中でわずかに重くなった気がした。錯覚だと、澄乃にはわかっていた。わかっていても、その重みを払いのけることができない。
「一緒に、参りますか」
澄乃は言った。
一郎はしばらく澄乃の顔を見ていた。洋燈の光が二人の間に揺れ、白無垢の花嫁人形だけが静かに目を伏せている。
「ああ」
一郎はようやく答えた。
その声に、澄乃はこれまで聞いたことのない温度を感じた。孤独な青年の、ただ一つの執着が、今夜初めて誰かと分かち合われる色をしていた。
夜明けはまだ遠い。廻廊への道は、ここから始まる。