朝霧が西陣の路地を這うように漂い、機屋の軒先から糸の匂いが流れてくる頃、澄乃はもう仕事に出ていた。

 書斎での夜のことは、胸の奥に丁寧に畳んでしまってある。一郎の声、揺れる蝋燭の灯、そして花嫁人形の虚ろな目——それらを今この瞬間に引き出してはいけないと、澄乃は自分に言い聞かせた。今は奉公人である。澄乃ではなく、すみという名の娘である。

 帳場に続く廊下を拭いていると、通りかかった番頭の源助が、ちらと視線を向けてすぐに逸らした。その一瞬の目つきが妙に引っかかった。侮るでもなく、哀れむでもなく、何かを測るような色があった。

 やがて台所では、お清とお房が声を潜めて話しているのが耳に届いた。言葉そのものは拾えなかったが、笑いを噛み殺すような気配と、「深夜に」「書斎で」という断片が聞こえた気がした。

 澄乃は膝をついたまま、雑巾を握る手に静かに力を込めた。

 ——知られている。

 廊下の木目を見つめながら、澄乃は深く息を吸った。怒りではなかった。焦りとも少し違う。波が足元を攫おうとしているような、あの感覚——流されてはならぬと身構える、あの緊張。

 柊屋の朝は早い。女中たちは次々と仕事に散り、澄乃も常と変わらず動いた。客間の床の間に季節の花を活け、帳場の硯箱を磨き、昼前には反物の整理を言いつかった。どれも丁寧に、どれも静かに。揺るがぬことが今できる唯一の答えだと、澄乃は思った。

 けれど視線は消えなかった。すれ違う者がみな、何かを知っているような顔をしていた。

 昼餉の後、澄乃が蔵の前の石畳を掃いていると、背後から軽い足音がした。

「すみさん」

 振り返ると、宗像哲三が小脇に風呂敷包みを抱えて立っていた。民俗学の資料だとかで、この頃は柊屋への出入りが増えている。飄々とした笑みを常に浮かべているが、今日は少し違った。声が低く、笑顔の下に鋭いものが走っていた。

「少しよいですか。立ち話で」

 澄乃が頷くと、哲三は石畳に目を落とし、あたりを確かめるようにしてから、やや身を寄せた。

「糸さんのことです」

 澄乃は箒の柄を握り直した。

「昨夜、お前さんと旦那が深夜の書斎に二人でいたという話、もう屋敷中に広まってますよ。誰が流したか、言うまでもないでしょう」

「……糸さんが」

「彼女はね」と哲三は言った。声はあくまでも穏やかだったが、その穏やかさが却って重みを持っていた。「危ない人です。家の実権のためなら、人を一人潰すくらい何とも思わない。これは私の感想じゃなくて、調べた結果そう思ってる」

「調べた、とは」

「民俗学の調査というのは、土地と人を同時に掘るものでしてね」哲三は少し苦笑した。「柊屋の過去の奉公人に話を聞いたことがある。三年前、糸さんに目をつけられた娘が一人、理由も告げられずに暇を出された。それより前にも似たようなことが」

 澄乃は何も言わなかった。石畳の目地に詰まった苔を、視線だけで辿った。

「すみさん」哲三がわずかに声を落とした。「あなたは賢い人だ。だからこそ言う。糸さんはもう動き始めている。今朝の噂はその糸口に過ぎない。次は旦那への讒言が来る。あなたの素性を疑わせるような話を、少しずつ、巧みに」

 素性。

 その言葉が澄乃の胸の奥で鈍く響いた。もし糸が——あの目の鋭い女が——澄乃の正体に気づいているとしたら。没落公家の末裔が、何かを隠して奉公に入り込んでいると知っているとしたら。

「気をつけて」哲三は最後にそう言い、何事もなかったように立ち去った。風呂敷包みを小脇に抱え直しながら、玄関の方へ消えていく後ろ姿を、澄乃はしばらく見送った。

 ——春の泥濘のような朝だ、と澄乃は思った。

 踏み出すたびに足を取られそうで、それでも歩かねばならぬ。

     *

 糸が一郎の部屋を訪ねたのは、昼を過ぎた頃だった。

 一郎は帳簿を開いていた。先代が残した売掛の整理で、本来なら番頭に任せる仕事だったが、今朝は何故か自分でやりたい気分だった。数字を追う作業が、昨夜からざわめいている何かを鎮めてくれる気がして。

「一郎さん」

 糸の声には、常と変わらぬ柔らかさがあった。しかしその柔らかさを一郎は幼い頃から知っている。真綿というのは、絞める時も柔らかいのだ。

「何です、叔母上」

「少し気になることがあって」糸は遠慮がちに、しかし確かな足取りで部屋に入り、卓の前に膝を折った。「すみという娘のことです」

 帳簿を繰る手が、わずかに止まった。

「昨夜、あの娘を書斎に呼んだそうですね」

「資料の整理を頼んだ。それだけのことです」

「深夜に、二人で」

 一郎は糸を見た。糸は静かに微笑んでいた。責めているのでも、咎めているのでもない——そういう顔だった。ただ心配している叔母、という顔だった。それが一番始末に悪い。

「叔母上が何を言いたいのか、はっきりおっしゃい」

「あの娘の素性が、私には少々腑に落ちないのです」糸は言った。「口入れ屋の仲立ちとのことでしたが、どういった家の出なのか。訛りもなく、所作も妙に整いすぎている。反物の目利きも、並の娘より格段に上等で」

「聡明な娘だ。それが何か」

「聡明なのは結構。けれど——」糸はそこで少し間を置いた。「柊屋に何か目的があって入り込んだのだとしたら、いかがでしょう」

 一郎は黙っていた。

 糸の言葉は、細い針のようなものだった。刺さったかどうかも分からぬほど細く、しかし確かに皮膚の下へ入り込む。

「そのようなことはない」

「おそらくは」糸はあっさり引いた。「ただ、一郎さんが惑わされなければそれでよいのです。蔵のことも、花嫁人形のことも、あまり外へ漏らさない方が」

 それだけ言って、糸は立ち上がった。廊下に出る際、振り返りもしなかった。引き戸が静かに閉まり、絹擦れの音が遠ざかっていく。

 一郎は帳簿を閉じた。

 糸の言ったことは、おそらく半分は正しい。澄乃が並の奉公人でないことは、一郎自身がとうに気づいていた。口入れ屋が連れてきた娘にしては、何かが違う。和歌を諳んじる癖。古い公家言葉の残滓のような言い回し。花嫁人形を前にした時の、あの微かな動揺。

 しかし。

 目的があって入り込んだとして——それで何が変わるというのか。

 昨夜、書斎で向かい合った時の澄乃の目を、一郎は思い出した。蝋燭の灯を映して揺れていた、あの目。嘘をつく目ではなかった。何かを懸命に守っている者の目だった。

 ——惑わされなければそれでよい、か。

 一郎は窓の外を見た。西陣の空は薄曇りで、糸のように細い光が雲の向こうから差していた。

     *

 夕暮れ時、澄乃は蔵の脇の水場で手を洗っていた。冷たい水が指の間を流れ、今日一日の疲れをわずかに溶かしていく。

 孤立していた。

 それは確かだった。女中たちの輪から、今日は自然と外れていた。声をかけられることが減り、目が合えばそらされた。噂というのは、こんなにも早く形を変えるものか、と澄乃は思った。昨日まで普通に話していた人たちが、今日はもう少し遠い。

 けれど揺らぐわけにはいかない。今夜、地下廻廊へ行く約束がある。朱乃のために。百三年間、誰にも名を呼ばれなかった姫のために。

 水場の向こう、夕暮れの空を見上げながら、澄乃はひとり和歌の一句を口の中で転がした。

 ——君待つと、わが恋ひをれば。

 万葉の昔から変わらぬ、待つ者の歌。朱乃もかつて、誰かを待ちながらこの歌を口ずさんだのだろうか。

 その時、背後で足音が止まった。

 振り返ると、一郎が立っていた。帳簿を片手に持ったまま、何かを探すように澄乃を見ていた。その目には、昼間の糸との会話が僅かに影を落としているように見えた。

「今夜のことだが」

 一郎は静かに言った。

「予定通りに」

 ただそれだけ言って、背を向けた。その後ろ姿が廊下の角に消えるまで、澄乃は動かなかった。

 予定通りに——その言葉が、今日一日で積み重なった孤立感の上に、小さな灯のように落ちた。

 信じてくれている、と思ってよいのか。あるいは、まだ何も決まっていないのか。

 闇が深まるにつれ、澄乃の胸の中で問いと予感が絡み合っていった。糸の張り巡らせた網は、確かに二人を囲みつつある。そして地下廻廊の奥には、百年の眠りが待っている。

 今夜が、何かの岐路になるという気がした。

春泥の誓いと、百年眠る花嫁

17

糸の網と疑惑の朝

宵待 紬子

2026-05-30

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第17話 糸の網と疑惑の朝 - 春泥の誓いと、百年眠る花嫁 | 福神漬出版