燭台の灯りが、書斎の天井を低くくゆらした。
柊屋の奥座敷に設けられた一郎の書斎は、澄乃が想像していたものとは異なっていた。硝子戸の向こうに小さな坪庭を持ち、西洋の書棚と和机が違和感なく並ぶその部屋は、主の内側を映すように、どこか二つの時代のはざまに立っていた。積み重なった帳面の束、洋書の背表紙、そして隅に置かれた古い桐箱。澄乃は案内されるまま敷居をまたいだが、深夜の静寂と一郎との二人きりという状況が、じわじわと足の裏から這い上がってくるのを感じていた。
「座ってください」
一郎は短く言い、みずから行灯に火を足した。その所作に、今夜は長くなるという覚悟のようなものが滲んでいた。
澄乃は文机の前に正座し、膝の上で手を重ねた。先ほど蔵を出るとき、地下廻廊へ続く石段の前で一郎が言ったのだ。まず知っておくべきことがある、と。廻廊へ降りる前に、話しておきたいことがある、と。
一郎は書棚の奥から一冊の帳面を取り出した。表紙は煤けた紺色で、角が擦り切れている。家の記録というよりは、誰かが私的に書き留めた覚書のような風情だった。
「柊屋の秘録とは別に、これがあります。先代の先代、わたしの曾祖父にあたる者が残した日録です」
机の上に置かれたそれを、澄乃は視線で追った。一郎は表紙を開くことなく、その上に手を置いた。まるで書かれた言葉を外へ逃がさぬよう押さえているかのように。
「花嫁人形のことを、ここに聞きます」
澄乃は小さく頷いた。
「あの人形が作られたのは、今から百と三年前のことです。当時の柊屋の当主、柊惣兵衛が京の人形師に特別に依頼した。ただの飾り雛ではなく、婚礼衣装を纏わせた座り雛。それも——婚礼を誓った、ある娘の面差しに似せて、と」
澄乃の背筋が、静かに伸びた。
「婚礼を、誓った」
「そうです。記録によれば、惣兵衛は当時まだ若く、柊屋の跡を継いだばかりだった。西陣の織物を扱う商人として、彼はある公家の邸へ出入りする機会を持った。その家の姫と、言葉を交わすようになった」
一郎は静かに続けた。書かれた文字を読み上げているのではなく、何度も反芻した言葉を吐き出しているように聞こえた。
「姫は賢く、和歌を好み、家の格式より人の心を重んじる質だったと記されています。商家の者と言葉を交わすことを咎める者もいたが、姫はそれを意に介さなかった。惣兵衛もまた、身分の隔たりを知りながら、その心根に惹かれていった」
澄乃は息を呑んだ。和歌を好み、家の格式より人の情を重んじる——それはまるで、自分自身のことを言われているようだった。いや、そうではない。これは百年前の話だ。しかし、その既視感の正体が、今夜はいやに鮮明だった。
「二人は誓いを交わしたのですか」
「そう読めます。ただ——」
一郎は帳面の表紙を、指先で一度だけ撫でた。
「その後、姫は亡くなった。詳しい経緯は記されていない。ただ、婚礼が叶わなかったこと、惣兵衛が深く悔いたこと、そして人形を作らせたのはその後だということが、ここにある」
「人形に……姫の面を映して」
「生涯、惣兵衛は再び妻を娶りませんでした。柊屋の家督は甥に渡った。それがわたしの家系の始まりです」
部屋に沈黙が落ちた。坪庭の方から、虫の声が一つ、細く聞こえた。
澄乃は視線を落とし、自分の手のひらを見た。婚礼を誓った娘。亡くなった姫。百年前の公家の屋敷。それは朱乃のことではないか。夢の中で何度も声を届けてきた、あの女の——。
「その娘の名は」
澄乃は顔を上げた。一郎の眼が、静かに揺れた。
「それが」と彼は言った。「記録から、消されている」
「消された?」
「日録の中で、姫を指す箇所はすべて『彼の人』と書かれている。固有の名は一度も出てこない。惣兵衛が意図して書かなかったのか、あるいは後から誰かが墨で塗り潰したのか——判然としない」
澄乃は唇を引き結んだ。消された名。それほどまでに、その存在を秘匿しなければならなかった理由が、どこかにあったのだろう。
「わたしは……」と澄乃は、慎重に言葉を選びながら言った。「夢を見るのです。繰り返し。蔵の中で眠るような夢で、そこに——女がいます。緋の小袖を纏った、幼い姫のような」
一郎の目が、わずかに細くなった。
「名を、名乗りましたか」
「朱乃、と」
その名を口にした瞬間、行灯の炎が揺れた。風もないのに。澄乃は思わず灯りを見やり、それからまた一郎を見た。彼の表情はいつもの冷静な面持ちを保っていたが、その奥に、何か堰き止められたものがあると分かった。
「柊屋の秘録には、百年前に縁を結べなかった公家の姫のことが、ただ一行だけ書かれている」
一郎はゆっくりと言った。
「『朱き衣の姫、逝く』と」
澄乃の胸に、鈍い何かが落ちた。朱き衣。朱乃。夢の中の、あの緋の小袖の女。名が消されても、色だけが残った。あるいは残されることを許された、最後の痕跡。
「一致します」と澄乃は呟いた。「朱乃は——その姫は、百年前に惣兵衛さんと誓いを交わした公家の姫です」
「わたしもそう考えています」
一郎は静かに言った。そこには断言する強さと、長く一人で抱えてきた重さの、双方があった。
「では」と澄乃は続けた。「人形はその朱乃の依り代となって、今もここに留まっている。婚礼の誓いが果たされなかったから」
「果たされなかった誓いは、縛る。そう秘録には記されていた」
縛る。その言葉が、澄乃の胸の中で静かに反響した。呪いとも取れる言葉だったが、澄乃にはそれが憎悪ではなく、ただ純粋な執着のように感じられた。逝ってしまった者の、残された者への、もう届かないはずの手の伸ばし方のような。
「あなたはいつから知っていたのですか。わたしが——藤原の末裔であることを」
澄乃は直接、問うた。
一郎は少し間を置いた。それは答えを考えているのではなく、どこから話すべきか測っているような間だった。
「あなたが初めて蔵の前に立ったとき」
「……最初から」
「人形が、反応した。普段は動かない。けれどあなたが近くにいると、人形の向く方角が変わる。わたしには説明のつかない話です。しかし確かに変わった。藤原の血を引く者が近くにいると、何かが変わると秘録に書かれていた。だからわたしは——確かめたかった」
澄乃は一郎の顔を見た。その横顔は書斎の薄明かりの中で陰影を深め、ひどく孤独に見えた。合理主義を纏い、感情を表に出さないこの青年が、百年前の誓いという非合理的なものを、誰にも言えずに一人抱えてきたのだと、澄乃は今更ながら気づいた。
「怖くはなかったのですか」と澄乃は訊いた。「そのような縁に、関わることが」
「怖い、という感覚がよく分かりません。わたしには」
一郎は素っ気なく言ったが、続けた。
「ただ——放っておけなかった。朱乃が、ずっとここにいる。百年もの間、果たされない誓いの中に閉じ込められたまま。それを知って、何もしないでいることが、わたしにはできなかった」
その言葉は、静かだったが、澄乃の内側に確かに届いた。この青年は、理屈ではなく、情で動いている。自分でも気づかぬまま。
「わたしも」と澄乃は言った。「放っておけません。朱乃のことを」
二人の間に、奇妙な静寂があった。緊張ではなく、何か共鳴するものが静かに満ちてくるような、不思議な間。坪庭の虫の声が、また一つ聞こえた。
「地下廻廊へは、明日の夜に」と一郎は言った。「哲三さんにも声をかけます。一人で踏み込むべき場所ではない」
「はい」
澄乃は頷いた。頷きながら、胸の奥でまだ先ほどの言葉が響いていた。百年もの間、果たされない誓いの中に——。
廻廊の先に何があるのか、まだ分からない。しかし澄乃には、もうすぐ何かが変わるという予感があった。朱乃が待っている。そして、待っているのは朱乃だけではないかもしれないと、澄乃はふと思った。
行灯の灯りが、再び揺れた。