秋雨が石畳を濡らす朝だった。
哲三から文が届いたのは、澄乃がちょうど帳場の隅で帳簿の写しを取り終えた頃合いのことである。折り畳まれた紙を袂に滑り込ませ、澄乃は物陰へ身を引いた。
走り書きの文字は、哲三らしく興奮気味に乱れていた。
——糸さんのことで、大事な話がある。今夜、例の場所へ。
それだけの短い言葉が、澄乃の胸に小さな石を投げ込んだ。例の場所とは、柊屋の裏手を流れる小川沿いの、柳が一本だけ立つ土手のことだ。哲三とはそこで幾度か言葉を交わしてきた。
その日、澄乃は一日中、糸の気配を意識して過ごした。
柊 糸という女は、常に気配が鋭い。廊下を歩む足音ひとつとっても、どこか品定めをするような間がある。澄乃が奉公に上がって以来、糸はいつも少し遠いところから見ていた。露骨に牙を剥くでもなく、かといって親しむでもなく——ただ、静かに測るように。
夕刻、帳場の若い衆が雨戸を閉める音が屋敷に響き始めた頃、糸が廊下の角に立っているのを澄乃は見た。薄墨色の着物に、帯は渋い鉄紺。白髪交じりの髪を厳しく結い上げた横顔は、何かを遠く見透かすようでもあり、何かを長年堪え続けてきたようでもあった。
澄乃は会釈をして通り過ぎようとした。
「澄乃」
糸が口を開いた。名を呼ぶ声は低く、静かで、しかし確かに澄乃の足を止めた。
「はい」
「今夜は雨が強うなる。夜歩きは控えなはれ」
それだけ言って、糸は踵を返した。澄乃は背筋に冷たいものが走るのを感じながら、表情を動かさぬよう努めた。忠告か。それとも牽制か。どちらとも取れる言葉の薄さが、かえって不気味だった。
*
小雨の中、柳の下に哲三は傘も差さずに立っていた。
「濡れますよ」と澄乃が言うと、「構いません、話を早くしたくて」と返ってきた。澄乃は自分の傘を傾けて二人の頭上を覆い、哲三は少し恐縮した顔で身を寄せた。
「糸さんのことです」と哲三は言った。「古い知り合いを辿って、ようやく話を聞けました。柊屋の旦那衆と懇意にしている骨董屋の爺さんで——」
「何がわかったのですか」
「糸さんはね、若い頃、柊屋の先代当主に恋慕していたそうです」
雨が葉を打つ音が、しばらく二人の間に落ちた。
「先代というのは、一郎さんの父上の……」
「そのまた前の代です。今の旦那さんの祖父にあたる方。糸さんは先代の縁戚の家から柊屋に奉公に入った娘でした。奉公というても、それなりの家格があった。先代もその娘を憎からず思っていたようで——ただ、柊屋は当時すでに大店でしたから、正式な縁組の話になると、家格が釣り合わぬと親族に押し切られた」
澄乃は黙って聞いた。
「糸さんはその後、別の男に嫁ぎましたが、早くに夫を亡くして柊屋へ戻ってきた。以来ずっと、この家に仕えている。骨董屋の爺さんは言っていましたよ——あの人は家に仕えているんやない、先代の残した家に憑いているんやと」
憑いている、という言葉が澄乃の胸に引っかかった。
「だから、実権を」
「恋慕が恨みに変わったのか、それとも恋慕のままに家を手中に収めようとしているのか——そこまではわかりません。でも糸さんが一郎さんを認めながらも御しようとしているのは、先代の血を手放せないからじゃないかと、僕は思っています」
澄乃は川面を見つめた。雨粒が水面に無数の輪を描き、重なっては消えていく。
家格の差で遮られた恋。それは澄乃には遠い話ではなかった。没落したとはいえ公家の血を引く自分が、こうして素性を隠して呉服問屋に奉公している——その根底にあるものと、どこか地続きの痛みが、糸にはあったのかもしれない。
だからといって、糸の行いを許せるわけではない。けれど澄乃は、いつの間にか糸という女の孤独の輪郭を、自分の中に描いていた。
「哲三さん」と澄乃は言った。「糸さんは今日、私に夜歩きを控えるよう言いました」
哲三の表情が引き締まった。「知っているかもしれませんね、あなたが僕と会っていることを」
「ええ」
「気をつけてください。糸さんは情ではなく算段で動く人です。あなたへの関心が何由来のものかが読めない今は、特に」
澄乃はそっと頷いた。
*
翌朝、雨は上がっていた。
白い光が濡れた庭石を照らし、柊屋の内庭はどこか洗われたように静まり返っていた。澄乃が縁側の雑巾がけを終えた頃、糸が庭に面した座敷に座っているのを見つけた。
「澄乃、こちらへ」
声には命令の色はなかった。ただ静かに、引き寄せるような重さがあった。
澄乃は雑巾を持ったまま、座敷の縁に膝を折った。
糸はしばらく庭を見ていた。ひとつも余分な動きをしない女だと澄乃は改めて思った。まるで、長い年月をかけて無駄を削り落としてきたかのように。
「あなたは賢い娘やね」と糸は言った。「帳簿の勘が良い。文字も整うている。奉公人にしては過ぎた」
「もったいないお言葉です」
「過ぎた、と言うたのよ」
糸は静かに澄乃を見た。その目は、責めてもなく、嘲ってもなく、ただ正確に澄乃という存在を測っているようだった。
「あなたの名は藤原澄乃というそうやね」
澄乃の指先が、雑巾をきつく握りしめた。
「藤原、という苗字は今も残っていはる。没落した公家の家に」
庭の松が風に揺れた。その音だけが世界に残った。
「私は澄乃と申します、呉服問屋の奉公人で——」
「証は出さへん」と糸は遮った。「今は、ね」
今は、という言葉の重さを、澄乃はゆっくりと咀嚼した。証拠を持っているか否かではない。糸が言っているのは、出すか出さないかは自分が決める、ということだ。
「何を——」
「何も聞かへんでいい。ただ、私はあなたが何者かを知っている。それだけを伝えたかった」
糸は視線を庭へ戻した。話は終わりだという態度だった。
澄乃は立ち上がる足に力が入らないのを感じながら、ゆっくりと縁を下りた。内庭を横切る間、背中に糸の視線を感じた。刃物のように鋭いわけではない。ただ、正確に、静かに、澄乃の形を切り取るような目だった。
台所の暗がりに入ったところで、澄乃はようやく息を吐いた。
胸が波立っている。恐怖と、それ以上の反発が入り交じって、うまく鎮めることができない。
証は出さない——今は。
その言葉の意味は明白だ。澄乃の正体を握り、必要な時に使う。それが糸の算段だ。哲三が言った通り、この女は情ではなく算段で動く。
ならば、と澄乃は思った。私はどう動くべきか。
逃げることは、朱乃が許さないだろう。夢の中で「急げ」と言い続けている声が、耳の奥に響く。百年前に果たせなかった誓いの時間は、もうあまり残されていない気がした。
一郎はまだ何も知らない。蔵の前で月に語りかける孤独な横顔が、澄乃の胸に浮かんだ。
守りたい、と思った昨夜の衝動は、今もまだ消えていなかった。
しかし今や、澄乃自身が守られなければならない立場に追い込まれつつある。
糸は何を望んで、この牌を手の内に収めているのか。一郎への楔として使うつもりなのか。それとも——澄乃をこの家から追い出すための道具として。
どちらにせよ、時間は糸の側にある。
澄乃は額を台所の柱にそっと押し当てた。冷たい木の感触が、かろうじて意識を繋ぎとめた。
——動かなければ。でも、何から。
その時、廊下の奥から一郎の声が聞こえた。帳場の若い衆に何かを指示している、凛とした声。いつも通りの、迷いのない声だった。
澄乃はゆっくりと顔を上げた。
その声を聞くたびに、なぜか足が地を踏む気がした。