雨が、止まない。

 朝から空はぬめるように重く、昼を過ぎても明るさを取り戻す気配がなかった。梅雨の雨は春の雨とは違う。叩きつけるでも流れ込むでもなく、ただしとしとと、世界ごと湿らせるように落ち続ける。西陣の通りも、柊屋の瓦も、中庭の苔も、みな同じ灰色の水の衣を纏って静かに沈んでいた。

 澄乃が縁側の端に腰を下ろしたのは、夕刻の支度が一段落した頃のことだった。手水鉢の水面が小さく揺れるのを眺めていると、背後の廊下に足音がした。軽くはないが、急いでもいない。柊家の奉公人の中で、そういう歩き方をする者は一人しかいない。

「珍しいな。澄が縁側にいる」

 一郎が、いつの間にか傍らに立っていた。着流しの裾が揺れ、羽織の紺が雨の空気を吸って濃く見える。澄乃は軽く会釈してから、また庭へ目を戻した。

「お邪魔でしたか」

「邪魔なら声をかけない」

 そう言って一郎は、澄乃の三尺ほど離れたところに腰を落ち着けた。縁側に主と奉公人が並んで座るのは作法に叶わないが、一郎はそういうことを気にする男ではない。澄乃も今はそれをありがたいと思っていた。

 糸の牽制を受けてから一日が経っていた。正体を知っている、しかし今は証を出さない——あの言葉はまだ澄乃の喉の奥に刺さったままで、飲み込みきれずにいる。一郎に真実を告げなければならない日が、確実に近づいている。それでも今日この雨の中では、ほんの少しだけ、普通の時間の中に身を置いていたかった。

 しばらく、二人は黙っていた。

 雨の音だけが満ちていた。太い軒先から滴が連なって落ち、中庭の敷石に白い点を刻む。手水鉢の水は静かに溢れ、苔に吸われて消えていく。澄乃はその繰り返しを見ていると、どこか遠い場所へ連れて行かれるような気がした。

「雨が好きか」

 一郎が唐突に言った。

「嫌いではありません。静かになれますから」

「俺もそうだ」

 短く答えて、一郎は膝の上で指を組んだ。目は庭へ向いている。その横顔が、いつもと少し違う気がして、澄乃はそっと視線を向けた。合理的な、鋭い。普段は少し世界の外側から人を見ているような目が、今日は内側に沈んでいる。

「雨の日は、昔を思い出す」

 独り言のようだった。澄乃は何も言わずに待った。

「子供の頃から、雨の夜に決まって夢を見た」

 一郎の声は、やや低くなった。感情を乗せているのではなく、むしろ慎重に言葉を選んでいる、そういう低さだった。

「夢、ですか」

「繰り返す夢だ。場所はいつも同じ。こことは違う、もっと古い屋敷。庭が広くて、池があって、灯籠が一つ立っている。そこに女が一人いる」

 澄乃の胸が、かすかに軋んだ。

「女の方は……どのような」

「顔ははっきり見えない。白い衣を纏っていて、ただ雨の中に立っている。泣いているのか笑っているのか、それもわからない。ただ、何かを待っているように見えた」

 一郎は言葉を切った。雨が少し強くなり、軒の滴が幾筋にも増えた。

「その夢を、何度見ましたか」

「数えきれないほど。子供の頃は朝になるたびに怖かった。成長してからは慣れた。今は……」

 そこで一郎は僅かに眉を寄せた。何かを整理しようとしているような、しかし整理のつかないものを前にしているような、そういう顔だった。

「今は、怖くはないのですか」

「怖くはない。ただ、目が覚めると必ず」

 一郎はそこで言葉を止めた。続きを澄乃が催促することはできなかった。

 しばらくの沈黙があった。手水鉢の水がまた溢れた。

「その方は」

 澄乃は、自分でも気づかないうちに口を開いていた。

「その夢の中の方は、何とお呼びでしたか」

 聞いてはいけないかもしれない、と思いながら聞いていた。知ってしまえば、もう引き返せないかもしれない。それでも言葉は出てしまった。古い和歌が口をついて出るように、止めようとしても止まらなかった。

 一郎が、動きを止めた。

 肩も、指も、目の動きも、全部が一瞬静止した。雨の音だけが続いていた。縁側の木が冷たく湿っていた。

 澄乃は一郎を見ていた。一郎は庭を見ていた。

「……朱乃、と」

 声は、ほとんど息の中に溶けるほど小さかった。しかしはっきりと、その名は言われた。

 朱乃。

 澄乃の夢の中で語りかけてくる声と同じ名が、今、一郎の口から出た。

 縁側に沈黙が落ちた。雨の音が、遠くなった気がした。

 澄乃は、震えそうになる息を静かに吸った。一郎は庭を見たまま動かない。その横顔には、何か告白した後の疲労にも似た色があった。長く胸の中だけに仕舞っていたものを、初めて声に出してしまった者の、そういう顔だった。

「……ずっと、口にしたことがなかった」

 一郎が呟いた。

「誰かに話すような話ではないと思っていた。夢の話などと言えば笑われるか、頭がおかしいと思われる。この家では特に」

「笑いません」

 澄乃は、静かに言った。

「私は笑いません」

 一郎がそこで初めて、澄乃の方を見た。その目は普段の鋭さとは別の何かを持っていた。試しているのではない。ただ、確かめようとしている。この人間は信じていいのか、ではなく、この人間は何かを知っているのか、そういう目だった。

「澄」

「はい」

「お前は……」

 言いかけて、一郎は口を閉じた。代わりに視線を庭へ戻す。雨が、また少し強くなった。

 澄乃は一郎が途中で飲み込んだ言葉の形を考えた。お前は、何かを知っているのか。お前は、朱乃という名を知っているのか。お前は、いったい何者なのか。

 どれかはわからない。全部かもしれない。

 澄乃の手の中に、夢の中の朱乃の声が甦った。

 ——来てはなりません。

 ——あの方を、縛ってはなりません。

 百年前に死んだ公家の姫が、呪縛を断ち切れと言いながら、一方でこうして呼び寄せている。一郎は子供の頃から夢を見ていた。澄乃もまた夢を見てきた。二人が向かっているのは同じ場所で、そこには朱乃がいる。

 ならばこれは、宿縁と呼ぶほかないのか。

 第四話の夜のことを、澄乃は思い出した。澄乃が古い和歌の一節を口ずさんだとき、一郎が筆を止めた。何でもないとすぐに繕ったが、あの一瞬の静止は確かにあった。あのとき一郎の中で何かが揺れたのだと、今ならわかる。和歌は朱乃のものだったのかもしれない。夢の中で聞いた声が、現実の澄乃の口から出てきた。だから一郎は動きを止めた。

「一郎様」

 澄乃は、あえて名を呼んだ。一郎が少し顔を向ける。

「その夢は、今も続いていますか」

「ああ」

「雨の夜だけですか」

 一郎は少し考えてから、首を横に振った。

「最近は、昼でも見る。夢というより……記憶に近くなってきた」

 その言葉が、澄乃の胸を深く打った。

 記憶に近くなってきた。

 澄乃もそうだった。朱乃の声は最初は夢の中だけのものだったが、今は目を覚ましていても耳の奥に残っている。境目が、溶けてきている。

 それは近づいているということだ。何かが。百年前の誓いの核心が。果たされなかった約束の終わりが。

 雨が軒を叩く音が続いていた。中庭の手水鉢は静かに水を受け続けていた。一郎と澄乃は並んで座ったまま、しばらく何も言わなかった。

 沈黙は重かったが、嫌ではなかった。同じものを抱えている者同士の、静かな共鳴がそこにあった。

 やがて夕餉の支度を告げる声が奥から届いて、澄乃は立ち上がった。一郎も腰を上げた。何事もなかったように、二人はそれぞれの場所へ戻っていく。

 しかし澄乃は廊下に入る手前で、一度だけ振り返った。

 雨の中庭は薄暗く、灯籠に火はまだない。それでも水の光が白く揺れていた。

 百年前の屋敷に、池があって、灯籠が一つ立っていたと、一郎は言った。

 澄乃の知る朱乃の夢にも、池があった。

 次の雨の夜、二人は同じ場所を夢に見るのかもしれない。

春泥の誓いと、百年眠る花嫁

24

縁側の雨と、初めての名前

宵待 紬子

2026-06-06

前の話
第24話 縁側の雨と、初めての名前 - 春泥の誓いと、百年眠る花嫁 | 福神漬出版