廻廊から戻った夜は、やけに静かだった。
澄乃は与えられた小部屋に身を横たえたまま、長いこと天井の染みを数えていた。目を閉じれば、あの壁の文字が瞼の裏に浮かぶ。春泥に沈みても、誓いの花は咲く。血が尽きるまで、此の道に立つ。幼い頃から口ずさんでいた歌の、見知らぬ続き。声に出したとき、喉の奥に何か固いものが詰まったような感覚があった。それはまだ、溶けずにいる。
いつ眠りに落ちたのか、わからなかった。
気づけば澄乃は、どこでもない場所に立っていた。
地面も天井もなく、ただ白い靄が足元から立ち上っている。空気は冷えているのに、湿っていて、花の香りがした。梅でも桜でもない。もっと古い、名も知らぬ花の匂いだ。
「澄乃」
声は後ろから来た。振り向くと、そこに彼女がいた。
澄乃は息を呑んだ。これまでの夢では、朱乃の姿はいつも霞の向こうにあった。輪郭が定まらず、顔さえはっきりと見えなかった。しかし今夜の朱乃は、まるで目の前に立っているかのように鮮明だった。打掛の白地に、緋色の梅が幾重にも刺繍されている。黒髪は高く結い上げられ、簪の先が夢の光を受けてかすかに揺れていた。
顔は、澄乃自身によく似ていた。
「今宵は、はっきり話せる」と朱乃は言った。声は低く、落ち着いていた。「廊廊の文字に触れたから。あなたの血が、扉を開けてくれた」
澄乃はゆっくりと、朱乃の方へ歩み寄った。靄が足首に絡みつくが、重さはない。
「朱乃さま」澄乃は言った。「あなたは何を待っているの」
朱乃の瞳が、わずかに揺れた。答える前に、彼女は視線を遠くへ向けた。まるでその先に、別の時が見えているかのように。
「百年前の、ある夜のことを話しましょう」
それは語りではなく、見せることだった。
靄が動いた。白から藍へ、藍から燃えるような橙へ。炎の色だ、と澄乃は思った。どこかで何かが燃えている。遠くに太鼓の音がして、男たちの怒声が混じる。夢の中の夢へ、澄乃は引き込まれていった。
元治元年の京の夜だった。
朱乃は十八だった。明日は婚礼の儀というその夜に、外の世界が音を立てて崩れ始めた。池田屋の騒乱から続く政変の余波は、公家屋敷の奥にまで届いていた。廊廊づたいに逃げ込んできた柊家の先代当主——その名を源之助といった——は、刀傷を左腕に受けながら朱乃の前に現れた。
「姫、逃げてください」
源之助は言った。朱乃は首を振った。
「あなたを置いてどこへ行けというの」
そのとき朱乃は婚礼の衣装を身につけていた。明日のために誂えた白の打掛を。ほかに着るものを探している暇はなかった。
源之助は笑った。血の気が引いた顔で、それでも笑った。
「美しい」と彼は言った。「どうかそのまま待っていてください。必ず戻ります。誓います」
彼は廊廊の奥へ消えた。朱乃は蔵の中で、その言葉を胸に抱いて夜を明かした。
朝になっても、源之助は戻らなかった。
「政変の火は、すべてを呑んだ」と朱乃は静かに語った。夢の空間に、再び靄が満ちてくる。「源之助は、戻れなかった。生きているのか、死んでいるのかも、わからないまま。私も程なく、病で逝きました。婚礼の衣装を纏ったまま、あの蔵の中で」
澄乃の胸に、鈍い痛みが走った。
「それが」と澄乃は言った。「あの人形の」
「ええ」朱乃はうなずいた。「婚礼衣装を纏った人形は、私が作らせたもの。いいえ、正確には——私が、なったもの。誓いを果たせなかった魂は、行き場を失います。約束した場所を離れられない。だから私は人形に宿り、待ち続けた」
百年、という言葉の重さを、澄乃は初めて身体で感じた。百年とは、人が三度生まれ変われるほどの時間だ。その間ずっと、この人は待っていたのだ。戻らなかった人を。果たされなかった言葉を。
「でも」と澄乃は言った。喉が震えた。「源之助さんは、戻れなかった。誓いを破ったのではなく、果たせなかった。それは——」
「わかっています」朱乃の声は静かだった。静かすぎるほど静かだった。「頭では、ずっとわかっていた。彼が望んで戻らなかったのではないと。でも魂というものは、頭で納得しても、心が手放せないことがある。誓いの言葉は、あまりにも確かな形をしていたから。あの声の温度が、あまりにも真実だったから」
朱乃は手を差し伸べた。白い手の甲に、薄く血管が透けて見える。澄乃はその手を握ろうとして、でも指先が触れる直前で止まった。触れてはいけない気がした。まだ、その時ではない気がした。
「あなたを呼んだのは」と朱乃は言った。「あなたが私の血を引くからだけではない」
「では、なぜ」
「あなたは、続きを生きることができる」
その言葉の意味を、澄乃はすぐには飲み込めなかった。朱乃は微笑んだ。悲しい笑いだった。百年分の孤独を薄く溶かしたような、そういう笑いだった。
「私には果たせなかった。でもあなたには、まだ時間がある。誓いは血を伝う。それが宿縁というもの」
靄が濃くなり始めた。朱乃の輪郭が、少しずつほどけていく。
「待って」澄乃は言った。「まだ聞きたいことがある。呪いを解くには——」
「解くのではありません」朱乃の声は、もう遠かった。「継ぐのです。誓いを、あなた自身の言葉で」
最後に見えたのは、白地に緋色の梅だった。
炎のような赤が靄に溶けて、消えた。
澄乃は目を開けた。
障子の向こうが、白み始めていた。夜明け前の、もっとも静かな時刻。体は動かなかった。天井を見つめたまま、澄乃はただ息をしていた。夢の感触が、まだ指先に残っている。朱乃の声が、まだ耳の奥に響いている。
解くのではなく、継ぐ。
その言葉が、石のように澄乃の胸に沈んだ。
百年を待ち続けた魂のことを思った。誓いの言葉一つに縛られて、果たせなかった約束を抱いて、人形の中で夜を数え続けた朱乃のことを。それは呪いと呼ぶには、あまりにも哀しい話だった。呪いというものが憎しみから生まれるのなら、朱乃が纏っているのはそれとは別の何かだ。愛情が行き場を失い、時の中に凝り固まったもの。名のつけようのない、深い渇望。
澄乃は静かに身を起こした。
指が震えていた。それが悲しみからなのか、それとも別の感情からなのか、自分でもわからなかった。
廊廊の先に、一郎は何を知っているのだろう。柊家の嫡男として、源之助の血を引く者として。あの夜のことを、どれほど知っているのか。
問わなければならない。
朱乃が百年待ったものの正体を、今度こそ澄乃は言葉にしなければならない。でなければ、この話に続きは生まれない。
障子が白さを増した。京の夜明けは、いつも静かに来る。
澄乃は袂の中で、そっと手を握りしめた。