雨が降る前の空は、独特の重さで地を押しつける。
澄乃は縁側に腰を下ろし、曇天を仰ぎながら昨夜の夢を何度も心の中でなぞっていた。朱乃の声は、目覚めてなお耳の奥に残っている。低く、けれど水面のように澄んだその声が、繰り返し同じ言葉を告げていた。
——呪いを解くのではなく、誓いを継ぐのです。
継ぐ、という言葉の重みを、澄乃はまだ測りきれずにいた。解くのであれば、断ち切ればよい。しかし継ぐとは、自らがその先に立つということだ。百年の時を越えた糸の末端を、この手で引き受けるということだ。
「澄乃さん」
背後から声がした。振り返ると、宗像哲三が風呂敷包みを両手に抱えて廊下に立っていた。いつもの人懐こい笑みが、今日は少し押し殺されている。どこか切迫した色が、丸い目の奥に宿っていた。
「哲三さん。今朝は早いですね」
「急いで来ました。昨夜、資料を読み直していたら——少し、大事なことがわかってきたかもしれなくて」
哲三は縁側に腰を下ろすと、持参した風呂敷を解いた。中には大学の図書館から借り出したと思しき古びた和綴じの冊子と、自ら書き記したらしき覚書の束が詰め込まれていた。哲三は指先が紙で傷つくことも構わず、素早く頁を繰る。
「幕末から明治にかけての、西陣一帯の土地台帳と、それから——これです」
差し出されたのは、薄い和紙に細かな字で書き連ねられた文書だった。澄乃は受け取り、目を走らせる。
「これは……縁起文?」
「柊屋の先々代が、地下廻廊を封じた際に書き残したと思われる文書です。以前、柊屋の蔵で一郎さんが見つけていたやつの写しを、僕がこっそり転写させてもらっていたんです」
澄乃は哲三の顔を見た。彼は少し決まり悪そうに首の後ろを掻いた。
「事前に言っておくべきでしたね。ただ、その時はまだ内容の意味がよくわかっていなくて。でも昨夜、民俗学の先輩の論文を読んでいたら、ある種の呪縛について書いた箇所があって——そこと突き合わせたら、急に繋がったんです」
哲三は覚書を広げ、澄乃の前に置いた。そこには彼の几帳面な文字で、条件が箇条書きにされていた。
澄乃は声を出さずに読む。読み進めるうちに、胸の中で何かが静かに落ちてくる感覚があった。石が水底に沈むような、あの重い静けさ。
——誓いを交わした者の血を引く二者が、誓いの場所において、誓いの言葉を完成させること。
「哲三さん」と澄乃は言った。声が思ったより平らかに出た。「つまり——」
「つまり、澄乃さんと一郎さんの両方が、地下廻廊に立たなければならない」
哲三はまっすぐに言った。普段の軽さがそぎ落とされた声だった。
「朱乃姫と源之助が交わそうとして果たせなかった和歌の誓い——上の句と下の句に分かれたまま百年眠っているあの歌を、二人の子孫が廻廊で声に出して完成させる。それが、魂を解放する唯一の条件だと僕は考えています」
澄乃は文書に目を落としたまま、しばらく黙った。
縁側の外、庭の南天が風に揺れた。まだ赤い実をつけたまま、細い枝が右へ左へとしなっている。
「和歌は……残っていますか」
「上の句だけは。朱乃姫の遺品の中に書き記されていたものが、藤原家の古い文書の中に混じっていたはずです」
澄乃は顔を上げた。哲三が静かに頷く。
「澄乃さん、心当たりがあるんですね」
「……おそらく」
澄乃の脳裡に、幼い頃から繰り返し見ていた一枚の紙が浮かんだ。母が形見として残した文箱の中に、他の書き付けとは明らかに異なる雰囲気を持った和紙があった。薄く、透けるほど古びていながら、墨の色だけが不思議なほど鮮やかな一枚。幼い澄乃には意味をなさなかったその歌を、彼女はいつの間にか諳んじていた。まるで誰かに教わったかのように、自然に。
——春泥に足とられても行かむとす、誓いは花の散るよりも先に。
上の句。誓いの言葉の、前半。
「下の句は、柊屋にあるはずです」と哲三は言った。「源之助が書き残したものが、あの蔵の奥にあると踏んでいます。おそらく一郎さんはすでにそれを見ている。知らないまま、見ているかもしれない」
知らないまま、という言葉が澄乃の胸に刺さった。
一郎は何も知らされていない。いや、正確には——何かを知っている気がしていても、その意味を与えられていない。澄乃が素性を明かさずにいる限り、彼には謎の輪郭すら掴めないのだ。
「澄乃さん」
哲三が、いつになく真剣な眼差しで澄乃を見た。
「一郎さんに、話さなければなりません。もう、隠しておける局面じゃない」
澄乃は返事をしなかった。しかし否定もしなかった。
ただ南天の揺れを見ていた。赤い実が、風の中で小さく弾んでいる。
話す、というのは簡単なことだ。口を開き、言葉を並べる。ただそれだけのことだ。しかし何を話すのか、を考えると、息が詰まるような感覚があった。
自分が藤原の末裔であること。奉公に入ったのは素性を隠すためだったこと。朱乃の夢を見てきたこと。そして——あなたの先祖と自分の先祖が、百年前に果たせなかった誓いがあること。
それを話した後に、一郎はどんな顔をするだろう。
澄乃は心の中で一郎の顔を思い描いた。いつも少し距離を置いたように見える目。感情を制御するのに慣れすぎた、あの静かな表情。しかしその奥に——澄乃だけが時折見てしまう、揺れる何かが確かにある。
「一郎さんを、傷つけたくないんです」
澄乃はぽつりと言った。
哲三は黙って聞いていた。
「ずっと隠していたと知ったら、怒るかもしれない。信じていたのに、と思うかもしれない。それでも……それでも、話さなければ前に進めないということは、わかっています」
「澄乃さん」
哲三の声は優しかった。
「一郎さんは、傷つくかもしれない。でも彼は、知る権利がある。この誓いは彼のものでもある。百年間、柊の家がずっと抱えてきたものでもある。それを、澄乃さん一人で背負う必要はない」
澄乃はゆっくりと息を吸った。
庭の空気は湿っていた。雨の匂いがした。それでも、その匂いの中にどこか土の温もりのようなものが混じっていて、澄乃は不思議と落ち着いた気持ちになった。
春泥、という言葉を心の中で転がした。
足を取られても、行こうとする。そういう歌だった。ぬかるんだ道を、それでも前へ向かうという歌。朱乃はその歌の上の句を書き留め、源之助が下の句で応えようとして——応えられなかった。
その未完の歌が、百年の重みで今ここに届いている。
「……今日、一郎さんに話します」
澄乃は言った。今度は迷いのない声だった。
哲三がほっとしたように肩の力を抜いた。
「よかった。それと——廻廊に入るには、柊屋の鍵が要ります。つまり一郎さんの協力なしには、何もできない。僕はその点でもずっと心配していました」
「わかっています」
澄乃は立ち上がった。着物の裾を整え、空を見上げる。雲はまだ低く、重い。しかし雨はまだ落ちていなかった。
「降り出す前に、行かなければ」
呟いた言葉は、天気のことだけを指しているのではなかった。哲三もそれをわかっているのだろう、何も言わずにただ頷いた。
澄乃は下駄を履き、廊下を歩いた。柊屋まで、ほんの数丁の距離だ。しかしその短い道が、今日ばかりは泥のように重く感じられた。
足を取られても、行かむとす——。
朱乃の声がまた耳の奥で揺れた。
澄乃は唇を噛み、歩みを止めなかった。