五月の風が、柊屋の格子を鳴らした。
その音を聞きながら、糸は座敷の隅に独り坐っていた。行灯の灯りが畳に落とす影は細く、彼女の横顔をいっそう険しく縁どっていた。
事は急いていた。
哲三という民俗学者の卵が廻廊の秘密に踏み込み、澄乃という娘が柊屋へ向かうと耳に入った時、糸の胸の奥で何かが冷たく弾けた。怒りではなかった。恐れでもなかった。もっと淡い、しかし確かな——終わりの気配、とでも呼ぶべきものだった。
百年の歳月が、ようやく動こうとしている。
糸はそれを知っていた。いや、知っていたからこそ、ずっと手を尽くしてきたのだ。朱乃の人形を蔵の最奥に封じ込め、廻廊への道を土と板で塞ぎ、柊の家に紛れ込んだ公家の血の匂いを嗅ぎつけるたびに潰してきた。それはすべて、家のためでも、実権のためでもなかった。
誓いが完成すれば、柊屋は滅ぶ。
糸はそう信じていた。百年前に宙へ散った誓いが結ばれる時、その代償として現世の柊が焼き尽くされると——老いた先代から耳打ちされたその言葉を、彼女は片時も忘れたことがなかった。
「お内儀様」
控えの間から、低い声が届いた。糸は振り向かず、ただ「入れ」と答えた。
滑り込んできたのは、丁稚の格好をした壮年の男だった。糸が十年前から密かに手元に置いた、口の固い人間だった。
「廻廊の東側、五間ほどの天盤が弱うなっております。あの辺りを揺らせば」
「確実か」
「はい。既に支柱を二本、抜いてございます」
糸はゆっくりと息を吸った。灯りの火が、ゆらりと揺れた。
「娘と、学者の男が廻路へ下りたのを確かめてから、入口を塞げ。出口は——」と、一瞬だけ間を置いた。「塞がなくてよい。ただ、入口だけでいい」
男は黙って頭を下げた。
糸は自分の掌を見つめた。皺の刻まれた、細い手だった。一郎のためを思えばこそ、とずっと言い聞かせてきた。しかし今夜、その言葉は空洞のように軽かった。
廊下を遠ざかる足音を聞きながら、糸は静かに目を閉じた。
*
一郎は書院の縁側に立ち、庭の暗がりを眺めていた。
澄乃が柊屋へ向かっていると、奉公人の一人から報せが届いたのは夕刻のことだった。なぜ今夜。その問いがずっと胸の中で回り続けていた。
彼女が何かを打ち明けようとしている。それは分かった。分かっていながら、一郎の足は縁側から動かなかった。打ち明けられる前に、自分が何を言うべきか——いや、何を言う資格があるのか、まだ測りかねていた。
奉公に来た時から、彼女は何かを隠していた。名を偽り、素性を伏せ、それでも蔵の奥へ吸い寄せられるように朱乃の人形へ近づいていった。その目の奥に宿る古い光を、一郎はずっと見ていた。
叔母上が、動いている。
ふと、そう感じた。理屈ではなかった。幼い頃から糸の腹の底を読み続けてきた勘が、今夜に限って鋭く疼いた。
一郎は書院を出た。
庭を横切り、蔵の裏へ向かう足が、自然と速まった。夜気の中に土の匂いが濃く立ち込めていた。廻廊の入口——古い観音開きの板戸の前に差しかかった時、提灯を手にした人影が素早く身をひるがえすのが見えた。
「待て」
声が間に合わなかった。人影は暗がりへ消え、代わりに、地の底から鈍い音が響いてきた。
*
廻廊の中は、土と木の匂いに満ちていた。
澄乃は哲三の持つ提灯の灯りを頼りに、石畳の上を歩いていた。壁の染みが、幕末の年号を浮かび上がらせていた。百年の時間が、この場所だけ固まっているようだった。
「もう少し先に、和歌が刻まれた石があるはずなんです」
哲三が声を潜めて言った。興奮と緊張が混じり合った声だった。「源之助殿が彫り残したという——」
その言葉の途中だった。
頭上で、何かが軋んだ。
澄乃は足を止めた。石畳に、砂がさらさらと落ちてきた。
「哲三さん」
呼んだ瞬間、轟音が廻廊を揺らした。
前方の天盤が、音を立てて落ちた。土砂と砕けた木材が、一気に廊下を塞いだ。哲三が弾き飛ばされるように後ろへよろめき、提灯が床に転がって火が揺れた。
「澄乃さん!」
埃が晴れた時、哲三は入口に近い側に倒れていた。膝を打ったらしく、すぐには立ち上がれないでいた。澄乃は崩落した土砂の手前で立っていた。
来た道を振り返る。入口の方角から、板戸が閉じる音が届いた。鈍く、重い音だった。
「……塞がれた」
澄乃は呟いた。声は静かだった。胸の内で恐怖が波打っていたが、それよりも先に、冷えた判断が動いていた。
「哲三さん、立てますか」
「は、はい、何とか」哲三が壁に手をついて身を起こした。「入口が塞がれたのですね。糸さんの仕業だ」
「ええ」
澄乃は崩落した瓦礫と、哲三の立つ場所を見比べた。崩落は前方——石碑のある方向に集中している。哲三は入口側だった。澄乃は、その中間に立っていた。
「哲三さん。入口の板戸を、外から開けてもらえる人はいますか」
「柊さんに——一郎さんに連絡できれば」
「なら、あなたは入口へ戻って」
哲三が目を丸くした。「澄乃さんは?」
「私はここに残ります」
言葉は、自分でも驚くほど落ち着いていた。恐ろしくない、などとは言わない。足の裏が石畳の冷たさを伝え、頭上からはまだ砂が落ちてくる。けれど廻廊のさらに奥——崩落した瓦礫の向こう——に、まだ朱乃の刻んだ石碑があるはずだった。
この場所を手放してはならない、と体の芯が告げていた。
「入口に戻れば、板戸を叩いて助けを呼べます。私が廻廊に残っていれば、この場所の証人になれる。哲三さんが外から開けてくれれば、私は逃げられる」
「しかし」
「急いで」
澄乃は静かに、しかし迷いなく言った。哲三は一瞬だけ唇を引き結び、それから深く頭を下げた。
「必ず、すぐに戻ります」
提灯を澄乃に押しつけ、哲三は入口へ向かって走った。足音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
廻廊に、澄乃ひとりが残された。
提灯の灯りが、狭い空間を薄く照らした。崩落した土砂の向こうに、暗闇が続いていた。
澄乃は土砂の前に坐り込み、膝を抱えた。
怖い、と思った。
しかし、それよりも強く、ある感触が胸の奥を満たしていた。
ここに来るべきだったのだ、という感触だった。
百年前の朱乃も、きっとこんな場所で独り坐っていたのだろう。誓いの言葉を半分だけ持ち、続きを届けられぬまま、暗い中に残されて。
「朱乃さん」
声に出して呼んでみた。返事はなかった。ただ、提灯の火がわずかに揺れた。風もないのに。
澄乃は古い和歌の上の句を、唇だけで動かした。源之助が彫り残したという、未完の誓い。それを完成させることが、すべての鍵だと哲三は言っていた。
一郎は、今どこにいるだろう。
澄乃は目を閉じた。胸の中で、彼の名を呼んだ。声にはしなかった。ただ呼んだ。
土砂のどこかで、また小さく何かが軋んだ。
提灯の灯りが、細くなった。