朝の光が西陣の家並みを白く染める頃、澄乃はすでに帚を手にしていた。

 昨夜、奉公人部屋に案内された時から、土地の匂いがどこか違うと感じていた。柊屋の空気は織物の糸と桐油と、もうひとつ名のつけられない何かが混じり合い、澄乃の生家とは似て非なる古さを帯びていた。没落してもなお、公家屋敷には雅の残り香があった。しかしここには実直な商いの重みがあり、それは澄乃にとって新鮮で、同時に少し怯む種類の気配でもあった。

 磨き込まれた廊下を掃きながら、澄乃は昨日見たものをまた思った。古い蔵。注連縄。扉の隙間に滲んだ白いもの。

 気のせいだ、と片付けようとして、うまく片付けられない。そういう時、脳裏に和歌の一節が浮かぶのは幼い頃からの癖だった。言葉にならぬものを言葉で押さえようとする、父から受け継いだ習性である。

 帚を動かす手を止めかけた時、廊下の奥から足音がした。

 低く、しかし軽やかな靴音だった。革底が板を叩く音は、和装の者のそれとは明らかに違う。澄乃が顔を上げると、洋装の青年が廊下を歩いてきた。

 紺の背広、白いカラー、艶のある靴。肩の線が西洋仕立て特有の鋭さで引かれ、袖口には細い金釦が光っていた。年のころは二十三か四か、面立ちは端正というより鋭利で、眉が濃く、目が深い。手には革表紙の帳簿を持ち、歩きながら中を繰っていた。

 澄乃は直感した。あれが、若旦那様だ。

 聞かされていた通り、柊一郎は西洋の風をそのまま着込んだような人間だった。廊下に立つ澄乃には目も向けず、帳簿を睨んだまま通り過ぎようとする。

「おはようございます。昨日より奉公に上がりました、澄と申します」

 澄乃は帚を脇に引き、きちんと頭を下げた。声が少し緊張で固くなったことに自分で気づいた。

 一郎は歩みを緩めなかった。しかし三歩ほど進んだところで、ようやく足を止めた。帳簿から目を上げ、澄乃をひとくさり見る。値踏みでも採寸でもない、それはむしろ事物を確認する時のような視線だった。

「糸叔母が採った者か」

「はい」

「素性は」

「京の者でございます。このたびご奉公のご縁を頂き」

 一郎は澄乃の返答を最後まで聞かなかった。すでに帳簿へ視線を戻し、「使えるならそれでいい」と言い放った。

 ただそれだけだった。

 廊下の向こうへ遠ざかる靴音を聞きながら、澄乃は頭を上げた。怒りでも悲しみでもない感情が胸の中にあった。強いて言えば、雨粒が石の上を滑る時のような、手応えのなさ。

 使えるならそれでいい。

 家名も、出自も、何も聞かずにそう言った。それが西洋流の合理というものかと、澄乃は少し考えた。侮られているとは思わなかった。ただ、ひどく透明な存在として扱われたような心地だった。

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 午後、澄乃は糸から帳場周りの片付けを言いつかった。柊屋の帳場は母屋の奥まった一室にあり、格子窓から中庭が見える。冬の光が薄く差し込み、棚に並ぶ帳簿の背表紙を照らしていた。

 部屋の中央に置かれた卓では、一郎が先刻と同じ姿勢で帳簿を開いていた。澄乃が入っても、顔を上げない。

 声をかけるべきか迷い、澄乃は黙って棚の整頓を始めた。帳簿の背に貼られた年号の紙が古びており、慎重に扱わなければ剥がれそうだった。

 しばらく沈黙が続いた。一郎の筆が帳面を走る音だけが静かな部屋に満ちていた。

 棚の奥に一冊、縦置きでなく横になった帳簿があった。取り出して向きを揃えようとしたとき、帳簿の下から一枚の紙片が落ちた。拾い上げると、古い仮名文字で何かが記されていた。日に透かすと、和歌の一節らしき言葉が浮かぶ。

 澄乃は無意識に、その句を口に乗せた。

「ちぎりおきし――」

 指先が止まった。声に出してから、場をわきまえなかったと気づいた。すぐに唇を閉じようとした、その瞬間。

 筆の音が、やんだ。

 澄乃は気づかなかった。ただ紙片を帳簿の中へ戻し、書棚へ返した。うっかり声に出してしまった自分の不用意さを、心の中で叱った。

 しかし一郎の手は、止まったままだった。

 筆を持つ指が、帳面の上で静止している。帳簿の文字を見ているような、見ていないような、どこか遠い場所に焦点を当てた目をしていた。澄乃が片付けを終えて「失礼いたします」と頭を下げた時、ようやく我に返ったように、一郎は短く咳払いをした。

「……ああ」

 それだけだった。

 澄乃は部屋を出た。廊下に出ると、冬の空気が頬を冷やした。さっき何かがあった気がした、と澄乃は思った。しかしそれが何だったのか、うまく言葉にならない。石の上を滑る雨粒が、今度はほんの少しだけ引っかかったような、そんな心地だった。

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 夜が来た。

 奉公人部屋は母屋の端にあり、小さな格子窓が北向きに開いていた。澄乃は布団の中で目を閉じようとして、閉じられなかった。

 理由は分かっていた。

 窓の外、離れた場所に建つ古い蔵が、瞼の裏に浮かぶのだ。昼間の陽光の下では、ただの古びた蔵だった。注連縄も、使わない蔵に貼るものとして説明がつく。扉の隙間の白いものも、光の加減かもしれない。

 そう自分に言い聞かせながら、澄乃は身を起こした。

 格子窓から外を見た。

 蔵が、光っていた。

 明かりだ、と澄乃は思った。しかし提灯や行灯の橙色ではない。もっと青白い、冬の月とも違う光が、蔵の扉の隙間から漏れていた。あるいは漏れているように見えた。目を凝らすほどに、光は揺れた。揺れたように見えた。

 澄乃は固唾を飲んだ。

 注連縄がかかった蔵に、夜の灯り。糸が厳重に鍵を管理するあの蔵の中に、何があるのか。

 白いもの、と澄乃は思った。昨日、扉の隙間に見た白いもの。

 白い、花嫁の、――。

 考えがそこまで至った時、離れた廊下をゆっくりと歩く人の気配がした。澄乃は素早く格子窓から離れ、布団へ戻った。足音は奉公人部屋の前を通り過ぎ、やがて遠くなった。

 静寂が戻った後も、澄乃の胸はしばらく鳴り続けた。

 灯りは、まだそこにあった。

春泥の誓いと、百年眠る花嫁

4

冷たい当主と西洋の燈

宵待 紬子

2026-05-17

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