朝の光が西陣の路地を細く染めるころ、澄乃はもう帳場の掃除を終えていた。
奉公二日目。昨日の戸惑いを全身に引きずりながらも、手は動く。箒を持てば箒の仕事をする。雑巾を絞れば雑巾の仕事をする。それが藤原の娘として育てられた澄乃の、密かな矜持であった。落ちぶれても手は抜かぬ。その一点だけが、今の彼女を支えている。
「澄乃さん、そこの桟は柔らかい布で拭かはらんと、塗りが剥げますえ」
声をかけてきたのは、お春であった。年の頃は二十三、四であろうか。目尻の下がった穏やかな顔をした先輩女中で、昨日から澄乃の世話を焼いてくれている。
「ご親切に、ありがとうございます」
「いいえ。うちも最初はよう怒られましたから」
お春はころころと笑い、澄乃の手から雑巾を受け取った。慣れた手つきで桟を拭きながら、小声で付け加える。
「若旦那様には、あんまり近づきすぎんほうがよろしいですよ」
澄乃は手を止めた。昨日の帳場での出来事が脳裏をよぎる。無意識に口ずさんでしまった和歌。筆を止めた一郎の横顔。その沈黙のひりつくような濃さ。
「近づきすぎると、何か」
「怒らはるんとは違うんですけど……」お春は少し言いよどんだ。「あの方はね、蔵に何か抱えておられるんです。それに関わるようなことがあると、急に遠くなってしまわれる」
「蔵、と言いますと」
お春の声がさらに低くなった。
「柊屋には古い蔵が三棟ございましてね。手前の二棟は反物の保管でございます。でも一番奥の蔵だけは、奉公人は誰も入れてもらえません。若旦那様だけが鍵をお持ちで、旦那様でさえ入られたことがないと聞いております」
昨夜目撃した青白い光が、澄乃の胸の中で再び揺れた。あれは確かに、一番奥の方角から漏れていた。
「その蔵に、何があるのですか」
お春は箒を持ち直し、あたりを確かめてから続けた。
「花嫁人形、と呼ばれておりますの。柊屋が商家として身を立てる以前から、代々伝わっている人形だそうで。触れた者には祟りがある、という言い伝えがございます。もう五十年以上、誰も顔を見ていないとか」
「祟り」
「ええ。……でも」お春は少し表情を変えた。「若旦那様が柊屋を継がれてからは、その人形のお世話だけは、ご自身でなさっているそうです。月に一度、夜中に蔵へ入られて」
澄乃は何も言わなかった。ただ、その言葉が胸の奥に静かに沈んでいくのを感じていた。
祟りがある人形を、誰にも任せず自ら世話する。それは怖くないのだろうか。それとも、一郎にとって恐怖よりも深い何かがあるのだろうか。
*
午後からは帳場の写しを手伝う仕事を命じられた。数字を間違えないように、澄乃は一文字一文字を丁寧に追っていく。算盤の音、絹の擦れる音、番頭が客に告げる値の声。柊屋の日常は騒がしいようで、どこか低く静かな音楽のように流れていた。
一郎はその日、ほとんど姿を見せなかった。西陣の別の取引先へ出向いているとのことで、帳場には番頭の清兵衛と若い手代だけが残っている。澄乃はひそかに胸を撫で下ろしながら、それと同時に、なぜ安堵しているのかを自問した。
怖いのではない。あの人の視線が鋭すぎて、自分の中を見透かされるような気がするのだ。
没落公家の末裔であることを隠して奉公に上がっている。それは澄乃にとって必要な偽りであった。家を売り、母の形見の帯まで手放した後に残ったのは、藤原という名前だけ。その名前すら今は仕舞い込んでいる。
だというのに、一郎はあの短い時間で何かを感じ取ったのではないか。そんな予感が拭えない。
夕刻、仕事を終えて井戸端で手を洗っていると、空が紫から藍へと移ろっていた。四月の風はまだ冷たく、水の感触が指先に鋭い。
ふと、幼い頃に祖母から聞かされた話を思い出した。
藤原の家には遠い昔、商家の男と結ばれ損ねた姫がいた。名を朱乃といった。その魂は百年経っても行き場を見つけられず、今も誰かを探して彷徨っているのだという。
祖母はそれを笑い話のように語っていた。でも澄乃には、どこか笑えない話だった。
誓いを果たせなかった魂が、百年もの間さまよい続ける。
——それは、どれほど苦しいことだろう。
*
その夜、澄乃は寝付けなかった。
奉公人が寝泊まりする部屋は母屋の北側にあり、隣ではお春が規則正しい寝息を立てている。薄い布団の中で目を開けたまま、澄乃は天井の木目を眺めていた。
花嫁人形。触れれば祟り。月に一度、夜中に蔵へ。
頭の中でお春の言葉がぐるぐると繰り返される。好奇心、と呼ぶには少し語弊がある。どちらかといえば、それは引力に近かった。説明のつかない何かが、あの蔵の方向へ澄乃を引っ張っている。
子の刻を過ぎたころ、廊下に人の気配がした。
澄乃は息を潜めた。足音は静かで、だが確かな意志を持って母屋の奥から庭の方へ向かっていく。澄乃は体を起こし、衝動に従って立ち上がった。自分でも驚くほど迷いがなかった。
帯を締め直し、素足に草履を引っかけて縁側へ出る。
月が出ていた。
十四夜の月が雲の切れ間から差し込み、柊屋の庭を白銀に染めている。池の面が静かに光を返し、老松の影が濃く地面に落ちていた。
その月明かりの中に、人影があった。
一郎であった。
黒い羽織を肩にかけ、手に古い燈籠を提げて、蔵の方へゆっくりと歩いていく。その後ろ姿は昼間の冷淡な若旦那とは少し違って見えた。どこか孤独な、それでいて何かに向かって確かに歩く、そういう背中をしていた。
澄乃は縁側の柱に身を隠したまま、目が離せなかった。
一郎が蔵の前で立ち止まる。腰から鍵を取り出し、扉の錠前に差し込む。その一連の動作は迷いなく、しかし丁寧だった。まるで長い年月をかけて繰り返してきたことのように、染みついた所作だった。
蔵の扉が開く。
昨夜と同じ青白い光が、一瞬だけ漏れた。
澄乃は気づかないうちに息を止めていた。
あの光は何だろう。人形から発されるものなのか。それとも一郎が持ち込む燈籠の炎が、何かに反射しているだけなのか。
扉が内側から閉まると、庭は再び月明かりだけになった。
澄乃はしばらくそこに立ち尽くしていた。風が吹いて、夜着の裾を揺らした。
その時、不意に頭の奥で声がした。
声、というより、歌に近かった。
誰かが口ずさむ古い旋律。言葉は聞き取れない。しかし澄乃の胸の奥がざわと騒いだ。以前にも——夢の中で——聞いたことのある、懐かしくも悲しい歌声だった。
朱乃、と澄乃はなぜか思った。
根拠などない。ただ、そうとしか思えなかった。
あの蔵の中に、あなたはいるのですか。
問いは声にならず、月明かりの庭に溶けていった。一郎が蔵から出てくる気配はまだない。澄乃は冷えた縁側に戻り、しかしなかなか部屋へ引き返す気になれず、柱に背をもたせかけたまま、長い時間をそこで過ごした。
やがて蔵の扉が静かに開き、一郎の人影が再び月の下に現れた。燈籠の火は消えていた。その手に、小さな何かが握られているように見えた。
翌朝、澄乃が帳場に入ると、一郎はすでに席についていた。昨夜の気配など微塵も滲ませない、いつもの無表情で帳面を繰っている。
「遅い」
一言だけ告げられた。
「申し訳ございません」
澄乃は頭を下げながら、昨夜のあの背中を思った。孤独で、しかし確かに何かへ向かっていたあの歩き方を。
そして心の中で、静かに決めた。
あの蔵の中を、いつか見る。
それが宿縁というものならば、自らの足で向かってみせる。