時層図書館の守人たちに戻る

時層図書館の守人たち

3

平安の来訪者

織部 時花 | 2026-03-22

平安の扉が放つ淡い光は、時層図書館の幻想的な空間に新たな調べを奏でていた。陽菜は扉の前に立ち、その向こうから聞こえてくる雅楽の調べに耳を澄ませている。虚無の収集家の脅威から一時的に逃れることはできたものの、心の奥底では不安が渦巻いていた。

 突然、扉の光が強くなった。陽菜が身構える間もなく、扉がゆっくりと開かれる。そこから現れたのは、白い狩衣に身を包んだ美しい青年だった。漆黒の髪を後ろで束ね、凛とした表情を浮かべている。その手には、複雑な文様が描かれた扇が握られていた。

「これは……」

 青年は図書館の光景を見渡し、驚きを隠せずにいる。平安の都とは明らかに異なる、無数の本棚が織りなす異空間に戸惑いを見せていた。

「あの、どちら様でしょうか」

 陽菜が恐る恐る声をかけると、青年は振り返った。その瞳は深い知性を湛え、まるで全てを見透かすかのような鋭さを持っている。

「安倍晴明と申す。平安京にて陰陽師を務めている身だが……」

 晴明は改めて周囲を見回し、扇を軽く振った。すると、目に見えない何かを確認するように頷く。

「なるほど、ここは時空が重なり合った特異点のようですね。興味深い」

 陽菜の心臓が高鳴った。安倍晴明——歴史の教科書でその名を目にしたことがある。平安時代を代表する陰陽師であり、数々の伝説に彩られた人物だ。

「あの、安倍晴明って、あの有名な……」

「有名、ですか」

 晴明は小さく微笑んだ。その表情には、どこか寂しげな影が差している。

「世の中では、私のことを様々に語り継がれているようですが、実際の私はただの術者に過ぎません」

 陽菜は慌てて頭を下げる。

「すみません、失礼なことを。私は時雨陽菜と申します」

「時雨……その姓には聞き覚えがあります」

 晴明の表情が変わった。扇を閉じ、陽菜を見つめる眼差しがより真剣になる。

「もしや、あなたは時層図書館の守人一族の方ですか」

 陽菜は驚きで目を見開いた。

「ご存知なんですか」

「ええ。平安の世にも、この図書館の存在は一部の者に知られています。時を超えて記憶を護る聖域として」

 晴明は書架の間を歩き始めた。その足取りは優雅でありながら、常に周囲への警戒を怠らない。陰陽師としての習性が身についているのだろう。

「しかし、なぜ私がここに?確か平安京の邸宅にいたはずなのですが」

 陽菜は案内書のことを思い出した。祖母千鶴が残してくれた貴重な手がかりだ。

「時空の歪みが生じているんです。虚無の収集家という存在が、各時代の記憶を奪おうとしていて……」

「虚無の収集家」

 晴明が立ち止まった。その名前に反応し、扇を再び広げる。扇には陰陽の印が描かれており、わずかに光を帯びている。

「その名前には、強い邪気が込められています。相当な力を持つ存在のようですね」

 陽菜は晴明の冷静さに驚いた。自分は虚無の収集家の存在を知っただけで恐怖に震えていたのに、この平安の陰陽師は淡々と状況を分析している。

「晴明さんは、怖くないんですか」

「怖れは判断を鈍らせます」

 晴明は振り返り、陽菜に優しい表情を向けた。

「それよりも、今この状況で何をすべきかを考える方が建設的です。あなたは守人として、どのような力をお持ちなのですか」

 陽菜の表情が曇った。この質問こそが、彼女の最も大きな不安の源だった。

「実は、私にはまだ何の力もないんです。祖母が前の守人だったことも、つい先ほど知ったばかりで……」

「なるほど」

 晴明は考え込むように眉を寄せた。そして、ふと何かに気づいたように顔を上げる。

「陽菜殿、失礼ですが現代とはいつの時代でしょうか」

「え?現代というと……2023年です」

 晴明の目が僅かに見開かれた。彼ほどの人物でも、これほど遠い未来から来たということには驚きを隠せないようだ。

「千年以上も先の世……」

 そのとき、晴明の視線が陽菜の背後にある書架に向けられた。そこには現代の雑誌や書籍が並んでいる。カラフルな表紙、見たこともないデザインの文字。

「これらは、未来の書物ですか」

 晴明が一歩近づこうとしたとき、図書館全体が微かに震えた。書架の本が軽やかな音を立て、どこからともなく冷たい風が吹き抜ける。

「また時空の歪みが……」

 陽菜が不安そうに呟いた瞬間、遠くから低い唸り声が聞こえてきた。時喰いの鳴き声だ。

「来ましたね」

 晴明が扇を構えた。その動作は美しく、まるで舞を舞うかのようだった。

「陽菜殿、私はまだこの状況を完全に理解しているわけではありませんが、あなたをお守りします」

 陽菜の胸に温かいものが広がった。知り合ったばかりの人物が、迷わず自分を守ると言ってくれる。その言葉には、千年の時を超えた真摯さが込められていた。

「ありがとうございます。でも、晴明さんも巻き込んでしまって……」

「いえ、これも縁でしょう」

 晴明は微笑んだ。その笑顔には、平安の雅な美しさと、陰陽師としての毅然とした意志が同居している。

「それに、私もこの図書館と現代という時代に興味があります。学ぶべきことが多そうだ」

 時喰いの唸り声が次第に近づいてくる。陽菜は案内書を握りしめ、晴明の隣に立った。

「他にも仲間がいるはずなんです。江戸時代や明治時代の扉もありました」

「なるほど、各時代から守人が集められているということですか」

 晴明は興味深そうに頷いた。

「それでは、まずは他の仲間たちと合流することを考えましょう。一人より、多くの知恵と力を合わせた方が良い」

 そのとき、図書館の奥から新たな光が立ち上がった。江戸時代の扉が開かれる音が響く。

「誰か来るようです」

 陽菜が身構えると、晴明が手を軽く上げて制した。

「敵ではありません。人の気配です」

 果たして、江戸の扉からは豪快な笑い声とともに、筆を手にした老人が現れた。その眼差しは生き生きとしており、まるで世界の全てを描き尽くそうとする情熱に満ちている。

「おお、ここが時層図書館か!なんとも面白い場所じゃないか」

 老人は陽菜と晴明を見つめ、人懐っこい笑顔を浮かべた。

「わしは葛飾北斎。絵描きをしている。よろしく頼むぞ、若いの」

 陽菜の心に、希望の光が灯り始めた。一人ではどうしようもなかった状況に、頼もしい仲間たちが現れてくれている。

 時層図書館に、新たな物語が始まろうとしていた。

第3話 平安の来訪者 - 時層図書館の守人たち | 福神漬出版