江戸時代の扉が勢いよく開かれた瞬間、陽菜は思わず身を竦めた。晴明が咄嗟に袖を翻し、陽菜の前に立ちはだかる。しかし現れたのは敵ではなく、一人の男性だった。
「おお、これは随分と奇妙な場所じゃないか」
扉から飛び出してきたのは、五十代ほどの男性だった。白髪交じりの髪を無造作に結い、墨で汚れた着物を纏っている。右手には筆を握り、左手には絵の具の入った小さな器を持っていた。その瞳には、まるで子供のような好奇心が宿っている。
「あなたは……」陽菜が恐る恐る声をかけると、男性は振り返って人懐っこい笑顔を見せた。
「葛飾北斎と申す。絵を描くのが生業でな」彼は軽やかに一礼すると、辺りを見回した。「それにしても見事な書庫だ。これほど多くの本が一箇所に集まっているとは……まるで知識の大海原のようじゃ」
晴明が警戒を解きながら前に出る。「北斎殿、ここは時層図書館と呼ばれる場所です。あなたもまた、何かを感じ取ってここへ来られたのですね」
「ほう、時層図書館とな」北斎は興味深げに頷いた。「実はな、最近妙なものが見えるようになったのじゃ。空気が歪むというか、時が捻じれるというか……普通の人には見えぬものがな」
陽菜は驚いて北斎を見つめた。「見える、というのは?」
「言葉で説明するのは難しいが」北斎は筆を振り上げた。「こうして描いてみせよう」
彼が筆を空中に走らせると、驚くべきことが起こった。何もない空間に、まるで見えない画布があるかのように、青い線が浮かび上がったのだ。線は複雑な模様を描き、やがて図書館全体を包む不思議な網目となった。
「これは……」晴明が息を呑む。
「時の流れじゃ」北斎が得意げに説明する。「普通は見えぬが、わしの筆にはこういう不思議な力が宿っておってな。最近になって、時というものが線として見えるようになったのじゃ」
陽菜は目を見張った。北斎の筆が描き出した線は、確かに図書館の各所に伸びていた。そして、その線の一部が淀んだり、切れかけたりしているのが分かる。
「この途切れているところは……」
「時が傷ついている場所じゃろうな」北斎は真剣な表情になった。「わしが江戸にいた頃から、こうした傷が増え続けていた。まるで何者かが時を食い破っているかのようにな」
晴明と陽菜は顔を見合わせた。時喰いのことだ。北斎の能力なら、虚無の収集家の仕業を可視化できるかもしれない。
「北斎殿」晴明が一歩前に出る。「実は我々も、その時の傷について知っているのです。あなたのお力を借りたい」
北斎は興味深そうに二人を見た。「ほほう、面白い話になりそうじゃな。詳しく聞かせてもらおうか」
陽菜は緊張しながらも、これまでの経緯を北斎に説明した。時層図書館のこと、守人一族のこと、そして虚無の収集家と時喰いの脅威について。北斎は時折頷きながら、真剣に耳を傾けていた。
「なるほど、そういうことか」話を聞き終えた北斎は、深くため息をついた。「わしが感じていた異変の正体が分かった。それで、この嬢ちゃんが守人の末裔というわけじゃな」
陽菜は頬を赤らめた。「でも私には、お二人のような特別な力はありません。きっと役に立てないと思います」
「そんなことはないじゃろう」北斎は優しく微笑んだ。「力というものは、必ずしも目に見える形で現れるとは限らん。わしの筆の力だって、つい最近まで気づかなかったのじゃからな」
そのとき、図書館の奥から不穏な気配が漂ってきた。本棚の間に黒い影がゆらめき、紙の焼ける匂いが漂う。
「時喰いが来る」晴明が身構える。
北斎は即座に筆を構えた。「ならば早速、わしの力を試してみるとするかな」
彼が筆を走らせると、空中に赤い線が浮かび上がった。それは時喰いの気配を捉え、その動きを克明に描き出していく。陽菜には見えない敵の姿が、北斎の筆によって明確に可視化されていく。
「あそこじゃ」北斎が指差した方向には、確かに時喰いの影が蠢いていた。「三体いる。こちらに向かってきておるぞ」
晴明が印を結び始める。「北斎殿、敵の動きが分かれば対処しやすい。どうか我々を導いてください」
「任せておけ」北斎は生き生きとした表情で筆を振るった。「わしも描き甲斐のある相手に出会えて嬉しいわい」
陽菜は二人の連携を見つめながら、胸の奥で何かが温かくなるのを感じていた。異なる時代から来た三人が、こうして力を合わせて戦おうとしている。まるで運命が導いたかのように。
北斎の筆が新たな線を描く。今度は金色に輝く線だった。それは図書館の書架を縫うように走り、やがて美しい護りの結界を形成した。
「これなら時喰いも簡単には近づけまい」北斎が満足そうに頷く。「しかし、これは一時しのぎじゃ。根本的な解決にはならん」
晴明が頷く。「そうですね。虚無の収集家本人を止めなければ」
そのとき、図書館の天井近くから、低い笑い声が響いてきた。三人は見上げる。そこには薄っすらとした人影が浮かんでいた。
「新たな守人が現れたか」その声は空気を震わせながら降りてくる。「絵描きよ、その筆で時の流れを見ることができるなら、絶望も描けるであろうな」
北斎は筆を握り直した。「面白いことを言う奴じゃ。わしは美しいものを描くのが好きでな。絶望なんぞ、つまらぬものは描く気にならんよ」
「美しいものか」虚無の収集家の笑い声がさらに響く。「すべてが無に帰せば、醜さも美しさも関係ない。完璧な静寂の世界が生まれるのだ」
陽菜は恐怖を感じながらも、勇気を振り絞って前に出た。「それは間違っています。記憶があるから、人は成長できるんです。過去があるから、未来に希望を持てるんです」
「希望?」虚無の収集家の声に、わずかな動揺が混じった。「希望など、裏切られるためにあるものだ。ならば最初から無い方が良い」
北斎が筆を高く掲げる。「嬢ちゃんの言う通りじゃ。希望がなければ、わしは絵を描く意味を見出せん。美しい富士を描くのも、波の躍動を表現するのも、すべては希望があればこそじゃ」
彼の筆先から、虹色の光が溢れ出した。それは図書館全体を包み込み、暖かな輝きを放つ。虚無の収集家の影が、その光に押し戻されていく。
「我々は諦めません」陽菜が声を張り上げた。「どんなに困難でも、記憶を、歴史を守り抜きます」
虚無の収集家の影は徐々に薄れていったが、消える直前に不吉な言葉を残した。
「次はもっと強力な時喰いを送り込んでやろう。覚悟することだな」
静寂が図書館に戻った後、三人は安堵のため息をついた。
「北斎さん」陽菜が振り返る。「あなたの力のおかげで、敵の動きがよく分かりました」
北斎は照れたように頭を掻いた。「わしもまさか、こんな風に筆が役に立つとは思わなんだ。面白い冒険になりそうじゃ」
晴明が頷く。「心強い仲間が増えました。しかし、敵はさらに強力になって戻ってくるでしょう」
そのとき、図書館の別の一角から、機械音のような響きが聞こえてきた。三人は警戒したが、それは敵の気配ではなかった。
明治時代の扉が、ゆっくりと開き始めていた。