古書店「記憶の扉」の地下室に響く足音が、まるで時の歩みを刻むように重く響いていた。朔夜は紬から託された古い書物を手に、椿野老師の元へと向かう。昨夜の出会いから一夜明け、彼の心には新たな責任感と、同時に言い知れぬ不安が渦巻いていた。
「老師、お疲れ様です」
朔夜の声に、古書の整理をしていた椿野老師が振り返る。その目には昨日までとは異なる深い憂いが宿っていた。
「朔夜君、ちょうどよいところに来てくれたね。実は、困ったことが起きているのだよ」
老師の表情に緊張感を覚えながら、朔夜は書物を手渡す。その時、店の入り口から鈴の音が響き、足早に階段を降りてくる音が聞こえた。現れたのは紬だった。普段の凛とした佇まいとは打って変わって、その顔には焦燥の色が濃く滲んでいる。
「椿野様、朔夜様、大変なことが起こっております」
紬の声は普段よりも高く、切迫していた。彼女の手には古い羊皮紙が握られており、そこには何やら緊急を要する文字が踊っているようだった。
「落ち着きなさい、紬ちゃん。何があったのかね?」
老師の穏やかな声に、紬は一度深呼吸をしてから口を開いた。
「霞ヶ丘市内で、記憶消失の報告が相次いでおります。昨夜から今朝にかけて、少なくとも十二件。いずれも、大切な思い出が忽然と消えているのです」
朔夜の胸に冷たいものが走る。記憶の消失——それは彼が最も恐れていた事態だった。自分自身の記憶の欠落に悩まされてきた朔夜にとって、他人の記憶が失われることは、まるで自分の痛みが世界に広がっていくような恐怖を感じさせる。
「具体的には、どのような記憶が?」老師が問いかける。
「初恋の記憶、亡くなられた祖母との思い出、子供の頃の夏祭り……いずれも、その人にとって心の支えとなるような、温かな記憶ばかりです」
紬の言葉に、朔夜は無意識に自分の胸に手を当てた。そこには、自分でも思い出せない大切な何かが眠っているような気がしてならない。
「忘却獣の仕業ですね」
紬の断言に、老師は重々しく頷いた。
「ああ、間違いないだろう。しかし、これほど大規模で組織的な記憶の略奪は前例がない。何者かが意図的に忘却獣を操っている可能性が高い」
朔夜は立ち上がる。彼の中で、影絵師としての力が静かに脈動していた。
「僕も行きます。被害者の方々の記憶を、影絵として映し出すことができるかもしれません」
「朔夜様、しかし危険が——」
「紬、彼の気持ちは分かる」老師が紬の言葉を遮る。「記憶を失う苦しみを知る者こそが、真に記憶を守ることができるのかもしれないからね」
三人は古書店を出て、霞ヶ丘市の街へと向かった。朝の陽光が古い石畳を照らしているが、どこか街全体に重苦しい空気が漂っている。まるで街そのものが記憶を失う痛みに呻いているかのように。
最初に向かったのは、商店街の角にある小さな喫茶店だった。店主の中年女性——田中さんは、椅子に座ったまま虚ろな目をしていた。
「おばあちゃんとの思い出が……何も思い出せないんです。確かにあったはずなのに、まるで霧の中にいるみたい」
田中さんの言葉に、朔夜は静かに手を差し出す。
「少しだけ、僕を信じてください」
朔夜の手が田中さんの手に触れた瞬間、部屋の壁に影が踊り始めた。しかし、いつものようにはっきりとした影絵は現れない。代わりに、歪んだ形の影がもがくように蠢いているだけだった。
「これは……」紬が息を呑む。
影の中に、かすかに忘却獣の輪郭が見えた。それは蜘蛛のような細い脚を持ち、中央に大きな口を開けた異形の生物だった。そして最も印象的だったのは、その目——深い紫色に光る、まるで宝石のような美しくも不気味な眼だった。
朔夜は能力を解いて、深いため息をついた。
「記憶が食い荒らされています。影絵として映し出せるのは、ほんの断片だけ……」
その後も、朔夜たちは被害者を次々と訪ね歩いた。駅前の書店の店員、小学校の教師、商店街の魚屋の親父。皆、同じように大切な記憶を失い、同じように途方に暮れていた。
夕方になって、一行は公園のベンチで休憩していた。朔夜の顔には疲労の色が濃く、紬は心配そうに彼を見つめている。
「朔夜様、無理をなさらないでください。影絵師の能力は、使いすぎれば自分の記憶にも影響を及ぼします」
「大丈夫です」朔夜は首を振る。「でも、僕の力では記憶を取り戻すことはできない。見ることしか……」
その時、公園の向こうから奇妙な気配が漂ってきた。夕闇が濃くなる中、木々の影がざわめくように揺れている。
「来ます」紬の声が震えた。
朔夜も感じ取った。先ほど影絵に現れた忘却獣と同じ、記憶を貪る邪悪な存在の気配を。
木陰から現れたそれは、朔夜が影絵で見たものよりもはるかに巨大で、禍々しかった。蜘蛛のような脚は銀色に輝き、中央の口からは紫色の煙が立ち上っている。そして、その美しい紫の眼が、まっすぐに朔夜を見据えていた。
「あれが……忘却獣」
朔夜の呟きに、紬が前に出る。彼女の手には、どこからか取り出した古い鈴が握られていた。
「朔夜様、お下がりください。記憶番人として、この化け物を——」
しかし忘却獣は、紬の言葉を待つことなく動いた。その速さは目を見張るほどで、一瞬で紬の前に現れる。朔夜は反射的に紬を庇うように前に出た。
忘却獣の大きな口が開かれ、紫の煙が朔夜の頭上に降り注ぐ。その瞬間、彼の脳裏に様々な記憶の断片がフラッシュバックした。しかし、それは彼自身の記憶ではない。今日出会った被害者たちの、奪われた記憶の欠片だった。
祖母の温かな手、初恋の人の笑顔、夏祭りの賑やか声——それらが朔夜の意識の中で蠢き、やがて霧のように消えていく。
「やめろ!」朔夜は叫んだ。「人の大切な記憶を……返せ!」
彼の叫びと共に、周囲の壁や木々に巨大な影が踊った。それは忘却獣よりもさらに大きな、何か得体の知れない影だった。
忘却獣は一瞬怯んだような素振りを見せたが、すぐに体勢を立て直す。そして、朔夜を見つめるその紫の眼に、まるで笑っているかのような光が宿った。
次の瞬間、忘却獣は煙のように消えた。まるで最初からそこにいなかったかのように、完全に姿を消してしまう。
朔夜は膝をついた。先ほどの体験で、彼自身の記憶にも混乱が生じている。自分の記憶なのか、他人の記憶なのか、その境界が曖昧になっていた。
「朔夜様!」紬が駆け寄る。
「大丈夫……ですが、あの忘却獣、ただの化け物じゃない。まるで、僕を試すように見てました」
老師が朔夜の肩に手を置く。
「朔夜君、君の影絵師としての力は、忘却獣にとって脅威となるものらしい。今日の接触は、おそらく偵察だろう」
「偵察……」
「ああ。本格的な戦いは、これから始まるのかもしれないね」
夜が深まる中、三人は古書店へと戻った。朔夜の心には新たな決意が芽生えていた。忘却獣の紫の眼が見つめていたのは、恐れではなく挑戦だった。そして朔夜もまた、その挑戦を受けて立つ覚悟を固めていた。
しかし彼らはまだ知らない。霞ヶ丘市の向こうのビルの屋上で、美しい男性がその一部始終を見つめていたことを。男の唇に浮かぶ冷たい微笑みと、その瞳の奥に宿る深い闇を——。