暮れなずむ空が茜色に染まる刻、千鶴は慎之助と共に患者たちの身辺を調べて回っていた。鏡月斎という謎の医師から薬をもらったという証言は、これまでに三人から得られていた。
「皆、最初は軽い体調不良を訴えていたようですね」
千鶴は手にした竹の紙片を見つめながら、慎之助に話しかけた。そこには患者たちの症状と経過が記されている。
「ああ。頭痛や眩暈、食欲不振といった具合に。それが鏡月斎という男の薬を飲み始めてから、幻覚を見るようになった」
慎之助は腰の刀に手を添えながら答えた。江戸の治安を預かる同心として、この奇怪な事件に只ならぬ気配を感じ取っていた。
「心魂草は本来、心の病を癒す薬草です。しかし使い方を誤れば、現実と幻の境界を曖昧にしてしまう危険な代物でもある」
千鶴の父から受け継いだ薬草の知識が、今回の事件の核心を突いていた。だが、なぜ鏡月斎はそのような危険な薬を人々に与えているのだろうか。
二人が歩いているのは、茶屋や料理屋が軒を連ねる繁華街の一角だった。提灯の灯りが石畳を橙色に照らし、往来には商人や職人、遊興にふける人々の姿が絶えない。
「千鶴、あそこに『鶴屋』という茶屋がある。お雪という娘がそこで働いていると聞いたが」
慎之助が指さした先には、古風な佇まいの茶屋があった。暖簾には鶴の図柄が染め抜かれ、中からは三味線の音色が漂ってくる。
「お雪さんも同じ症状を訴えているのですね」
千鶴は不安を押し殺しながら、茶屋の暖簾をくぐった。
店内は薄暗く、客たちが低い声で談笑している。奥の座敷からは時折、女性の笑い声が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ」
現れたのは、年の頃二十歳ほどの女性だった。しかしその顔には生気がなく、瞳は虚ろに宙を見つめている。
「あなたがお雪さんですか」
千鶴が優しく声をかけると、お雪ははっとしたように千鶴を見つめた。
「お客様...でしょうか。それとも...」
お雪の声は震えていた。その瞳には恐怖の色が浮かんでいる。
「私は薬草師の白川千鶴と申します。あなたのお体の具合をお聞きしたくて参りました」
「薬草師の...」
お雪はほっとしたような表情を見せたが、すぐにまた不安げな顔になった。
「実は、この頃おかしなものが見えるのです。死んだはずの母が現れて、私を呼ぶのです。『お雪、こちらにおいで』と」
千鶴は慎之助と視線を交わした。やはり他の患者と同じ症状だった。
「その症状が現れる前に、何かお薬をお飲みになりませんでしたか」
「はい...鏡月斎様という立派なお医者様から、体調を整える薬をいただいて」
やはりそうだった。千鶴は心の中で確信を深めた。
「お雪さん、その薬はもうお飲みにならない方がよろしいでしょう」
「でも、鏡月斎様は毎日飲むようにと...」
お雪は困惑した表情を見せた。その時、茶屋の奥から年配の女将らしき女性が現れた。
「お雪、お客様をお座敷にお通しして」
「はい、女将さん」
お雪は千鶴たちを奥の座敷に案内した。そこは八畳ほどの部屋で、床の間には古い鏡が置かれていた。
「こちらでお待ちください」
お雪が部屋を出て行った後、千鶴は床の間の鏡に目を留めた。それは青銅製の古鏡で、表面には細かな文様が刻まれている。
「立派な鏡ですね」
慎之助が近づいて鏡を覗き込んだ時、千鶴は異様な光景を目にした。
鏡の中に、慎之助の姿とは別の影が映っていたのだ。
それは人の形をしているが、どこか歪んでいて、まるで煙のように揺らめいている。千鶴は思わず息を呑んだ。
「慎之助さん、鏡を見てください」
「鏡?何か変わったところでも...」
慎之助が振り返った瞬間、影は消えていた。鏡にはただ、座敷の様子が普通に映っているだけだった。
「今、確かに見えたのに...」
千鶴は戸惑いを隠せなかった。自分も心魂草の影響を受けているのだろうか。
「千鶴、どうした?顔が青いぞ」
「いえ、何でもありません」
千鶴はそう答えたものの、心の奥に不安が広がっていった。もしも自分も幻覚を見始めているとしたら、真実を見極めることができるだろうか。
その時、お雪が茶を持って戻ってきた。
「お待たせいたしました」
お雪は盆を置くと、ふと鏡の方を見た。その瞬間、彼女の顔が恐怖に歪んだ。
「いや...また出た...」
お雪は震え声で呟いた。
「お雪さん、何が見えるのですか」
千鶴が問いかけると、お雪は涙を浮かべて答えた。
「鏡の中に...母が立っています。こちらを見て、手を差し伸べて...」
千鶴は再び鏡を見つめた。しかし、そこには何も映っていない。
「お雪さん、落ち着いてください。それは心魂草という薬草の作用です。幻覚なのです」
「幻覚...そんな」
お雪は首を振った。
「でも、あんなにはっきりと...母の声も聞こえるのです」
千鶴は立ち上がって、お雪の肩に手を置いた。
「大丈夫です。必ず治します。でも、鏡月斎からもらった薬は二度と飲んではいけません」
「わかりました...」
お雪はか細い声で答えた。
千鶴たちが茶屋を後にする時、再び鏡を振り返ると、またあの不可思議な影が見えたような気がした。だが、それは一瞬のことで、確かではなかった。
「千鶴、今夜は遅いからここで別れよう。明日、鏡月斎の正体を探ってみる」
「はい。でも慎之助さん、お気をつけください」
夜闇に包まれた街を歩きながら、千鶴は今日見た光景を反芻していた。鏡に映った謎の影、お雪の恐怖に歪んだ顔、そして自分自身の中に生まれ始めた疑念。
果たして自分は正しく現実を見ているのだろうか。鏡月斎という男の正体は何者なのか。そして、あの古鏡に映った影の正体とは―。
千鶴の胸に、新たな恐怖と決意が同時に芽生えていた。