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夜想曲と紡がれた亡霊

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古い楽譜の秘密

月村 奏子 | 2026-03-22

翌日の昼休み、樹里は図書館の一角にある音楽資料室で、昨夜のことを思い返していた。あの幻想的な演奏の余韻は、まだ心の奥底で静かに響いている。燕尾服の男性の姿は曖昧だったが、その指先から生まれた旋律は鮮明に記憶に刻まれていた。

「エドワード」という署名。あの楽譜は一体何だったのだろうか。

 樹里は古い楽譜を集めた書架の前に立った。音楽資料室は普段あまり学生が利用しない場所で、古びた楽譜や資料が静寂の中で時を重ねている。埃っぽい空気の中に、紙の匂いとかすかなカビの香りが混じっていた。

 背表紙の文字を追いながら、樹里は無意識のうちに昨夜聞いた旋律を心の中で奏でていた。あの美しくも切ない調べは、まるで魂の奥底から湧き上がってくるような不思議な力を持っていた。

「あった」

 樹里の視線が、棚の奥に押し込まれた一冊の楽譜集で止まった。革装丁の表紙は色褪せ、所々にシミが浮いている。そっと手に取ると、予想以上に重量があった。長い年月の重みを感じさせる、厳かな存在感。

 表紙を開くと、最初のページに美しい手書きの文字で「Edward Gray Collection」と記されていた。樹里の心臓が大きく跳ねる。エドワード・グレイ。昨夜の楽譜に書かれていたのと同じ名前だった。

 ページをめくると、手書きの楽譜が現れた。インクの色は褪せているが、音符の一つ一つが丁寧に書かれている。そして樹里が目を見開いたのは、そこに記された旋律が、まさに昨夜聞いた曲と同じものだったからだ。

「これは...」

 樹里の指先が、楽譜の上を静かに追った。音符を目で追うだけで、あの美しい旋律が頭の中に蘇ってくる。しかし楽譜は途中で途切れていた。まるで作曲者が突然筆を置いたかのように、中途半端なところで終わっている。

 次のページには、英語で書かれた文章があった。古風な筆記体で書かれているため読みにくいが、樹里は必死に解読を試みた。

『私の愛する音楽よ、私はこの地で君への想いを込めて演奏を続けている。しかし、この曲だけは完成させることができずにいる。いつの日か、私の心を理解してくれる魂と出会えたなら...』

 文章もそこで途切れていた。樹里の胸に、説明のつかない感情が渦巻いた。哀しみとも憧憬ともつかない、複雑な気持ち。

「樹里? こんなところにいたのか」

 突然の声に、樹里は我に返った。振り返ると、同級生の田中修平が心配そうな表情で立っていた。

「修平君...」

「昨日から様子がおかしいぞ。何かあったのか?」

 修平は樹里の幼馴染で、彼女の変化には敏感だった。現実主義者の彼には、樹里の霊感の強さを理解することは難しいが、いつも彼女を支えてくれる頼れる存在だった。

「これを見て」

 樹里は楽譜集を修平に見せた。修平は眉をひそめながらページをめくる。

「エドワード・グレイ? 聞いたことのない名前だな。19世紀の作曲家かピアニストか?」

「分からない。でも、この旋律...私、知ってるの」

 樹里の言葉に、修平は困惑の表情を見せた。

「知ってるって、どこで?」

 樹里は躊躇った。昨夜のことを話せば、修平は心配するだろう。しかし、この楽譜の存在は、昨夜の出来事が単なる夢や幻想ではなかったことを証明している。

「昨夜、練習室で...」

 樹里は恐る恐る昨夜の体験を話し始めた。見えない演奏者のこと、美しい旋律のこと、燕尾服の男性の幻影のこと。修平は最初は半信半疑の表情だったが、樹里の真剣な様子に次第に表情を改めた。

「それで、その楽譜がここにあったと?」

「そう。偶然じゃないと思う。きっと、私に見つけてもらいたかったんだと思う」

 修平は深いため息をついた。樹里の霊感については、子供の頃から様々な体験を共有してきた。完全に信じているわけではないが、否定することもできずにいた。

「危険じゃないのか? もしそれが本当なら...」

「大丈夫。怖くはないの。むしろ、この人の気持ちが分かるような気がする」

 樹里は楽譜を見つめながら言った。音楽への純粋な愛情、完璧を求める切ない想い。それらが楽譜の行間から伝わってくるような気がした。

「佐々木教授に相談してみたら? 音楽史の専門家だし、この建物のことも詳しいだろう」

 修平の提案に、樹里は頷いた。佐々木教授は学内でも博識で知られており、建物の歴史についても造詣が深いと聞いている。

 その時、図書館に夕方の鐘が響いた。オレンジ色の光が窓から差し込み、古い楽譜の上に幻想的な影を作り出した。樹里は楽譜集を借りることに決めた。

 帰り道、樹里の心は複雑な想いで満たされていた。エドワード・グレイという人物への興味、そして昨夜の体験が現実であったという確信。しかし同時に、これから自分が巻き込まれていくであろう出来事への不安も感じていた。

 夕暮れの中を歩きながら、樹里は心の中であの美しい旋律を反芻していた。途中で途切れた楽譜、完成されることのなかった想い。エドワード・グレイは一体どのような人物だったのだろうか。そして、なぜ彼の魂は今もあの練習室に留まっているのだろうか。

 その答えを求めて、樹里の心は既に決まっていた。今夜もまた、あの練習室を訪れよう。エドワードと直接話ができるかもしれない。彼の未完の想いに、自分が何かできることがあるかもしれない。

 楽譜集を抱きしめながら、樹里は夕闇の中を歩き続けた。背後から聞こえてくる音楽棟の微かな音に、彼女の鼓動が重なっていく。今夜、きっと新たな真実が明かされるだろう。

第3話 古い楽譜の秘密 - 夜想曲と紡がれた亡霊 | 福神漬出版