翌日の午前中、樹里は昨夜のことを整理しようと図書館の一角に座っていた。エドワード・グレイの楽譜集を再び開き、あの美しく切ない旋律を心の中で奏でる。楽譜に書かれた音符の一つ一つが、まるで生きているかのように紙面から立ち上がってくるようだった。
「樹里、ここにいたのか」
振り返ると、修平が心配そうな表情で立っていた。いつもの人懐っこい笑顔ではなく、眉間に深い皺を寄せている。
「修平くん。どうしたの?」
「それはこっちの台詞だよ。昨日から様子がおかしいじゃないか」
修平は樹里の隣に腰を下ろし、テーブルの上の楽譜集を見つめた。
「エドワード・グレイ? 聞いたことのない作曲家だね」
「19世紀のピアニストよ。でも、ほとんど知られていない人みたい」
樹里の声は少し震えていた。昨夜の出来事をどこまで話すべきか迷っていた。修平は幼い頃から一緒に過ごしてきた大切な存在だったが、彼の現実的な性格を考えると、到底信じてもらえるような話ではない。
「樹里、正直に言ってくれ。何か困ったことがあるんだろう?」
修平の優しい声に、樹里の心の中で何かが決壊した。もう一人で抱え込むのは限界だった。
「修平くん、もしも私が信じられないようなことを話しても、最後まで聞いてくれる?」
「当たり前だろう。何があったんだ?」
樹里は深く息を吸い込み、昨夜の出来事を話し始めた。深夜の練習室で聞こえた幻想的な演奏、姿は見えないが確かに存在を感じた何者かとの邂逅、そして今朝発見した楽譜との奇妙な符合。
話している間、修平の表情は次第に困惑から疑念へと変わっていった。
「樹里、それは夢だったんじゃないのか? 最近コンクールの準備で疲れているだろうし」
「夢じゃないの。本当にあったことなの」
「でも、霊なんて...」
修平の言葉は途中で止まった。樹里の真剣な表情を見て、軽々しく否定することはできなかった。しかし、理性的な彼にとって超常現象を受け入れることは困難だった。
「樹里の霊感が強いことは昔から知ってるけど、今回は違う気がする。ストレスで幻覚を見ているんじゃないか?」
「幻覚って...」
樹里の心に深い失望が広がった。最も理解してもらいたい人に信じてもらえない寂しさが、胸の奥で重く沈んでいく。
「一度、カウンセリングを受けてみたらどうだ? 大学にも学生相談室があるし」
「私は病気じゃない」
樹里の声は冷たく響いた。修平の提案は善意から出たものだと分かっていても、自分の体験を否定されることの辛さは堪え難かった。
「そういう意味じゃないよ。ただ、心配なんだ」
修平の声にも困惑が滲んでいた。幼馴染として樹里を支えたい気持ちと、現実的な判断の間で揺れていた。
「分かった。もう話さない」
樹里は楽譜集を閉じ、立ち上がった。
「樹里、待ってくれ」
修平も慌てて立ち上がったが、樹里の足は止まらなかった。図書館の静寂の中を、彼女の足音だけが虚しく響いていく。
一人になった樹里は、大学の中庭のベンチに座り込んだ。秋の陽射しが頬に温かく、しかし心の中は深い霧に包まれたように重苦しかった。
修平の反応は予想していた通りだった。それでも実際に突き付けられると、孤独感は想像以上に深刻だった。自分だけが体験している不思議な現象を、誰にも理解してもらえない辛さ。
「私、間違っているのかな...」
風が樹里の髪を優しく撫でていく。中庭の向こうには、重厚な石造りの校舎が静かに佇んでいた。長い歴史を刻んできた建物は、きっと数え切れないほどの人間ドラマを見つめてきたに違いない。
午後の授業中も、樹里の心は落ち着かなかった。ピアノの実技レッスンでは、いつもなら流れるように指が動く曲でも、どこかぎこちなさが残った。
「桜井さん、集中力に欠けていますね。何か心配事でも?」
担当教授の指摘に、樹里は慌てて謝罪した。
「申し訳ありません。もう一度お願いします」
しかし、どれだけ意識を集中させようとしても、昨夜の出来事と修平の反応が頭から離れなかった。あの美しい旋律と、それを奏でた存在の切ない想いが、樹里の心に深く刻まれていた。
夕方、修平がレッスン室の前で待っていた。
「樹里、話がある」
「修平くん...」
「さっきは悪かった。君の話をもっと真剣に聞くべきだった」
修平の謝罪に、樹里の心は少し軽くなった。しかし、まだ完全に理解してもらえていないことも感じ取れた。
「でも、やっぱり信じられないでしょう?」
「正直に言うと、そうだ。でも、君が嘘をついているとは思わない。何かを体験したことは間違いないんだろう」
修平の率直な言葉に、樹里は複雑な気持ちになった。完全に信じてもらえなくても、否定されないだけで救われる部分があった。
「今夜も練習室に行くつもりなんだろう?」
「えっ...」
「一緒に行く。何が起きているのか、この目で確かめたい」
修平の申し出に、樹里は驚いた。信じていないからこそ、現実を見せて樹里を諦めさせようという意図も感じられたが、それでも一人ではない安心感があった。
「本当に?」
「幼馴染の責任だ」
修平の苦笑いに、樹里の心にほんの少しの温かさが戻ってきた。
その夜、二人は約束の時間に練習室の前で待ち合わせた。修平は懐中電灯を持参し、まるで肝試しにでも向かうような表情をしていた。
「本当に何も起きないかもしれないよ」と樹里は言った。
「それならそれでいい。君の心配が杞憂だったということになる」
二人は静かに練習室のドアを開けた。室内は昨夜と同じように静寂に包まれていた。樹里は昨日座ったピアノの前に向かい、修平は少し離れた場所で様子を見守った。
「いつ頃から始まるんだ?」
「分からない。昨日は午前2時頃だったけど...」
時計の針が深夜を指す頃、練習室は重い静寂に支配されていた。修平は時折欠伸を噛み殺し、樹里は緊張した面持ちでピアノの鍵盤を見つめていた。
そのとき、かすかに風の音が聞こえてきた。
「修平くん、聞こえる?」
「風の音だろう。古い建物だから...」
しかし、その音は次第に音楽的な響きを帯び始めた。樹里の心臓が高鳴る。昨夜と同じ現象が始まろうとしていた。
修平の表情が変わった。明らかに普通ではない音が、練習室の空気を震わせ始めていた。