夜が落ちると、カガミアは静寂を装う。
ドームの内壁に埋め込まれた三万二千基の発光板が一斉に減光し、ガラス張りの都市はその透明な骨格を青白く沈める。そのとき初めて、昼間は光の洪水に溺れて見えなかったものが浮かびあがる。建物と建物のあいだにわずかに生まれる翳り。誰かの窓に揺れる人影。息をひそめて存在している、ありとあらゆる間隙。
白瀬透は、工員宿舎の自室で膝を抱えていた。
六畳の白いその部屋は、ガラスと合成樹脂で構成された棺桶に似ている。透は何度もそう思ってきた。思うたびに、その思考が記録されているかもしれないという恐怖が追いかけてきた。だが今夜は、恐怖よりも先に別のものがある。
膝の上に置かれた、あの仮面だった。
廃棄品置き場の最深部、錆びた棚の隙間から見つけ出したそれは、表面を何かの指紋のように走る細い亀裂があるほかは、一見して量産品の仮面と変わらない。しかし内側に刻まれた回路の文様は、透が十年間工場で扱ってきたどの型番とも一致しなかった。型番表記そのものが、削り取られていた。
百年前の技術で作られたものだと、透には確信があった。なぜそう思うのかは分からない。ただ、手のひらがそれを知っていた。
工場の深層スキャンが全工員に実施される、という通達が届いたのは三日前だった。執行官レナの署名が入った、冷たく端正な文書。透はその夜から眠れていない。スキャンを受ければ終わる。廃棄品の横流しではなく、それよりずっと深い場所にある自分の感情波形が、洗いざらい読まれてしまう。
スキャンまで、あと二日。
透は仮面をそっと持ち上げた。
部屋の青白い減光の中で、仮面の表面がぬらりと光を返した。その光の質が、他の人工物と違うと気づいたのは最初に手にしたときだ。ガラスやプラスチックが返す光ではない。もっと古いもの——たとえば、磨き込まれた金属や、水面が持つ反射に近い。生きているように見えた、と言ったら笑われるかもしれない。だが透は今夜、笑う人間がいない場所にいる。
装着する気は、なかった。
なかったはずだった。
けれど指は動いた。膝の上でなく、自分の顔の前に仮面を持ち上げ、ゆっくりと、水に顔を沈めるように、当ててしまった。
接触した瞬間、何かが走った。
熱でも痛みでもなかった。電流に最も近かったが、それも正確ではない。体の内側を何かが一直線に貫き、背骨を伝って頭の天辺まで駆け上り、そこで爆発した——そんな感覚だった。透は息を呑んだ。仮面を剥がそうとした。しかし指が動かなかった。動かないのではなく、動かす必要を忘れた、というほうが正しかった。
世界が、音を立てて割れた。
比喩ではない。透の視覚野の中で、今まで自分が見ていた「カガミアの夜」という像に、無数のひびが入った。割れたガラスのように光が乱反射し、その亀裂の向こうから別の色が滲み出てきた。オレンジ。赤。くすんだ金色。透が見たことのない色ではなかったが、それが「世界の色」として認識されたのは、生まれて初めてだった。今まで自分が見ていたのは、色ではなく、色の名前だったのだと気づいた。
次いで、感情が来た。
渇望、という言葉を、透は知識としては知っていた。感情管理省が発行する禁忌感情リストの第一番。「個の欲求を際限なく肥大化させ、集団の均衡を破壊する原始的衝動」と定義されている。そんなものが体の中に入ってくるとしたら、さぞかし醜いものだろうと思っていた。歪で、暗く、恥ずべき何かだろうと。
違った。
それは、ひどく純粋なものだった。
生きたい。
それだけだった。もっと深く息を吸いたい。光の本当の色を見たい。誰かの声を聞きたい。雨の匂いを知りたい——ドームの外に雨があるかどうかも分からないのに、ただただ知りたかった。触れたかった。感じたかった。百年分の抑圧が一息に解凍されたように、その渇望は透の細胞一つ一つを揺さぶり、存在することの意味を問い直した。
頰が、濡れた。
透は最初、自分の顔に水がかかったと思った。しかし水源がない。視線を落とすと、白い床に黒い染みが落ちていた。もう一粒、続けて落ちた。染みが広がった。
涙だった。
いつから泣いていたのかわからなかった。泣いていることに気づくより先に、身体が泣いていた。感情チップは今ごろ異常値を叩き出しているだろうが、どうでもよかった。何の涙かも分からなかった。悲しいわけではなかった。嬉しいとも言い切れなかった。ただ、何か途方もなく大切なものが、長い時間をかけてようやく今夜、自分の手に戻ってきたような気がした。ずっと気づかないでいたものを、取り戻したような。あるいは、初めて手に入れたような。
透は仮面をつけたまま、床に両手をついた。
呼吸が荒かった。全身が震えていた。しかしそれは恐怖の震えではなかった。生まれたての何かが、まだ名前も知らない感情が、自分の内側でのたうっているような——圧倒的な、生の感覚だった。
生きている、と透は思った。
自分が今、生きていると分かった。
今まで生きていなかったわけではない。呼吸をしていた。食事をした。仮面をつけて工場に行き、指示通りに手を動かし、定刻に帰ってきた。だがそれは生きていることではなかった。何かを生きているように模倣していただけだった。その膜が、今夜初めて破れた。
仮面をゆっくりと外した。
部屋の空気が頬に触れた。今まで何千回も触れてきたはずの空気が、まるで初めて触れるもののように冷たく、リアルだった。透は天井を仰いだ。減光された発光板が、遠く、青白い光を降らせている。その光の中に、かつては何も見なかった。今は、光そのものの粒が見えるような気がした。
携帯端末が、震えた。
不審な感情波形を検知した際のアラートではない——それは仕事用の端末の通知音で、透は少しの間、反応できなかった。震えが収まらない指で画面を確認すると、差出人の欄に見慣れない数字列があった。名前は登録されていない。本文は一行だけだった。
『明日の午後、第九廊下の終点。来られるなら来い。』
透は画面を、長いあいだ見つめた。
送ってきた人間に心当たりはなかった。あるいは、心当たりがありすぎて、どれとも断定できなかった。鏡花か。それとも別の誰かか。
返信はしなかった。端末を床に置き、仮面を膝の上に戻した。
遠くで、何かが鳴っている気がした。
ドームの内側を流れる空調の音でも、夜の発光板の低い振動でもない。もっと遠い場所から、電子音が一つ、二つと刻まれている。それが何の音か、透には知る由もなかった。感情管理省の、どこかの執務室で、解析官の端末が静かに警鐘を打ち始めているとは、まだ想像できなかった。
透は目を閉じた。
頰の涙が乾いていく感触の中で、ただ自分の心臓が動いているのを聞いていた。チップで数値化されることも、波形として記録されることも関係なく、それはただ、鼓動していた。
何かが、終わろうとしていた。
そして確実に、何かが始まろうとしていた。