目が覚めた瞬間、天井が泣いていた。

 そう思った。ガラス張りの天井を伝う結露が、朝光を受けて細い筋を描いている。それだけのことだ。それだけのことのはずなのに、透はしばらく寝台から起き上がれなかった。水の筋のひとつひとつが、何か切実なものを運んでいるように見えた。悲しみ、とまでは言えない。しかし悲しみに似た何かが、あの透明な線の中に封じ込められているような気がした。

 昨夜、仮面を外した後、透は長い時間をかけて呼吸を整えた。頬に残った涙の跡を手の甲でぬぐいながら、あれは何だったのかと問い続けた。しかし答えは出なかった。チップは感情値の急上昇を記録したはずだが、感情管理省からの警告は届かなかった。あの仮面には何らかの遮断機能があったのか、それとも古すぎてシステムが型番を判定できなかったのか。どちらにせよ、今の透に確かめる術はない。

 身を起こすと、部屋が違って見えた。

 正確に言えば、部屋そのものは変わっていない。白い壁、ガラスの卓、制服を吊るした金属の棒。何年も同じ場所に同じものが置かれている。しかし今朝は、その白さが白ではなかった。疲弊した白だ、と透は思った。何度も漂白を重ねて、本来の色を忘れてしまった白。壁が諦めを帯びている。そんな奇妙な確信が、胸の底に静かに沈んでいた。

 額に手を当てると、微かな熱があった。病気ではない。そう直感した。これは内側から来ている。

 身支度を終えて廊下に出ると、出勤前の住人たちが黙々と移動していた。誰もが規定通りの仮面をつけている。七十二番から百四番の間の「安定」を示す中間色。表情を持たないその面が、光の中に等間隔に並んでいる。透はいつもそれを当たり前の風景として受け流してきた。

 しかし今朝は、継ぎ目が見えた。

 仮面の縁と皮膚の間の、わずかな隙間。誰もがそこを持っている。どれほど精巧に合わせても、仮面は顔ではないから、必ず境界がある。それは知識として知っていた。だが今透の目には、その継ぎ目がまるで光の屈折のように際立って見えた。三十代の女性の左顎の下に走る細い影。老人の額の際に浮かぶ微かな隆起。子供の耳の後ろで揺れる仮面の縁。見ようとしなくても、勝手に目が吸い寄せられる。

 そして継ぎ目の向こうに、何かが透けて見えた。

 感情、と呼んでいいのかわからない。数値ではなく、色だった。あの女性の継ぎ目の奥には、くすんだ橙が滲んでいた。疲労か、焦燥か。老人の隙間には淡い青紫が漂っていた。諦念に近い何かだと、透は感じた。感じた、という言葉しかない。論理的な根拠はどこにもなかった。それでも確信があった。

 歩きながら透は額の汗を拭った。微熱が上がっている。

 工場への通路に入ったとき、端末が振動した。メッセージは短かった。

『副作用が出た。早く来い。』

 送信者の名前はなかった。しかし透にはわかった。あの声の持ち主だ。鏡花。

 透は立ち止まり、通路の壁に背を預けた。周囲の流れが乱れないよう、端に寄る。工場に向かわなければ、欠勤記録が残る。欠勤が重なれば感情管理省の審査対象になる。それはわかっている。しかしあの継ぎ目の向こうに見えたものが、まだ目の裏に貼りついていたままだ。老人の淡い青紫。女の橙。もし透の感覚が本当のことを映しているなら、自分は今、他人の感情を皮膚で受け取っている。

 それが何を意味するのか、透には判断できなかった。

 鏡花の場所は教えられていない。しかし前回の接触のとき、透は無意識に経路を記憶していた。第九廊下、そこからさらに下へ。それだけを手がかりに、透は工場とは逆の方向へ足を向けた。

 地下に降りるにつれて、感覚が研ぎ澄まされた。

 正確には、鈍化した。地上の過密な感情の滲みが遠ざかり、代わりに古い空気の重さが全身を包む。廃棄管路の壁は錆と湿気で変色し、照明は三分の一が死んでいた。薄暗い中で、透は自分の手の甲を見た。皮膚が微かに発光しているように見えた。錯覚だと思う。しかし錯覚だと断言する自信もなかった。

 鏡花は第九廊下の突き当たりにある廃棄倉庫にいた。

 引き戸を引くと、溶剤と金属の匂いが鼻を打った。作業台の上には分解されかけた仮面が数枚、それぞれ異なる色を帯びて並んでいる。鏡花は椅子に座り、透を一瞥すると、すぐに視線を仮面に戻した。今日の彼女がつけているのは、細かな格子模様の入った灰色の面だ。目元だけが開き、その奥の瞳は常に計算しているように見える。

「予想より早かったな」と鏡花は言った。「いつ気づいた」

「今朝」と透は答えた。「継ぎ目が見えるようになった。それと、色が」

「色」鏡花は繰り返した。手を止めて透の方を向く。「具体的に言え」

 透は一息ついてから、通路で見たものを説明した。女の橙、老人の青紫。色として感じるという奇妙な感覚。鏡花は途中で遮ることなく、最後まで聞いた。

「渇望の副作用だ」と彼女は言った。声に感情はない。しかし透には、その声の中に緑がかった何かが混じっているように感じた。緊張、あるいは関心。「あの仮面は百年以上前の試作品で、通常の感情抑制機能を持っていない。それどころか、逆方向に働く。感情の受容体を拡張する」

「拡張」

「おまえが今感じているのは、おまえ自身の感情だけじゃない。周囲の人間の感情値の残滓を皮膚で拾っている。チップが抑制している分まで、外に漏れ出たものを」

 透はゆっくりと息を吐いた。

「それは、止まるのか」

 鏡花はすぐには答えなかった。作業台に視線を落とし、指先で仮面の縁をなぞる。その沈黙の中に、透は赤みを帯びた色を感じた。今度は確かに、躊躇だと思った。

「時間が経てば落ち着く。おそらく」と彼女はようやく言った。「しかし完全には戻らない」

 完全には戻らない。

 透はその言葉を咀嚼した。感情管理省に届けるべきだという考えが頭をよぎった。しかしそれを口にすることは、もうできなかった。あの涙を届け出るということは、昨夜体の奥で何かが動いた瞬間を、数値として処理されることを意味する。それを拒む気持ちが、今の透にはあった。

「副作用が出たということは、受け入れたということだ」と鏡花は言った。どこか遠くを見るような声だった。「あの仮面は、拒否した人間には反応しない。体が渇望を認識した証拠だ」

 透は問いかけようとした。しかし言葉が来る前に、鏡花が立ち上がった。

「熱を測る」

 差し出された小さな器具を透の額に当て、数秒待つ。彼女の手の甲が触れた瞬間、透は鋭い色を感じた。黄みがかった白。光に似ていて、しかしどこか痛い。それが鏡花の感情の輪郭だと気づいたとき、透は思わず目を細めた。

「三十七度八分。許容範囲内だ」

 鏡花は器具を引き、再び背を向けた。

「今日は帰るな。ここにいろ。外に出ると感情の渦に飲まれる。受け入れた直後は感受性が安定していない」

「工場が」

「欠勤記録は処理する。おまえの担当監察官に話をつけてある」

 透は少し驚いた。「漣さんのことを知っているのか」

 鏡花は答えなかった。代わりに作業台の引き出しを開け、小さな瓶を取り出してこちらへ滑らせた。

「熱が上がったら飲め。眠れるなら眠った方がいい。感受性は睡眠中に統合される」

 透は瓶を手に取った。中に透明な液体が揺れている。

「ひとつ、聞いていいか」

「何だ」

「おまえは、同じ経験をしたことがあるか」

 沈黙が倉庫に広がった。鏡花は仮面に視線を戻したまま、しばらく動かなかった。指先が止まっていた。その静止の中に、透は初めて複雑な色を見た。重なり合った幾つかの層が、にじんで混ざって、輪郭を失いかけている。

「寝ろ」と彼女は言った。

 それだけだった。しかし透には、その声の奥に灰色と深紅が混在しているのが見えた。答えは否定でも肯定でもない。もっと複雑な何かだ。

 透は壁際の古い椅子に腰を下ろした。瓶を膝の上に置き、目を閉じる。微熱が額の奥で静かに燃えていた。閉じた瞼の裏に、今朝見た色たちが浮かんでいた。橙、青紫、緑、痛い白。世界はずっとこんなに色を持っていたのか。それとも、今の自分だけが見えているのか。

 どちらにしても、もう前の目には戻れない気がした。

 その不安が、しかし奇妙なことに、透を恐怖よりも何か別の場所へと連れていった。恐怖の手前にある、名前のついていない感情。問いかけたくて、触れたくて、もっと深く知りたいという衝動。

 渇望、と透は思った。

 これが、渇望だ。

硝子の都市と百の仮面

16

翌朝の世界

御影 澄架

2026-05-28

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第16話 翌朝の世界 - 硝子の都市と百の仮面 | 福神漬出版