朝が来ても、夜空は戻らなかった。
地平線の向こうから薄白い光が滲み出すように差し込んでくるのに、頭上の暗がりには星座の影ひとつない。昨夜まであれほど輝いていた銀河の帯も、幾千もの記憶の結晶も、まるで誰かが布ごと剥ぎ取ったかのように消え去っていた。街の人々は空を見上げたまま口を閉ざし、市場の喧騒は朝の鐘が鳴っても生まれなかった。夜図界にとって夜空とは単なる景色ではない。誰かが生き、誰かを愛し、誰かを失った証の集積だ。それが根こそぎ消えた朝というものが、いったいどれほどの重さを持つのか、蒼汰には言葉にする術がなかった。
ギルドの大会議室は朝の第三刻には満席になっていた。
円形の部屋の中央に据えられた観測石盤の上には、昨夜の消滅記録が青白い光の線で刻まれている。地図師たちが席に着くたびに、その光は微かに揺れた。まるで傷口がまだ塞がっていないかのように。蒼汰は後列の端に腰を落ち着け、膝の上に地図帳を置いた。表紙の革が少しひんやりとして、昨夜から一睡もしていない手のひらに心地よかった。
老師・天弦が壇上に現れたのは、ざわめきが頂点に達しようとした頃だった。
白い衣の裾を引いて歩む姿は、いつものように穏やかで、少しも慌てた様子がない。それがかえって、蒼汰の胸の中にある焦りを鋭く刺した。昨夜の「始まったか」という呟き。あれはいったい何を知っていて、何を待っていたのか。
「昨夜の事象については、すでに各位も見聞きされた通りだ」
天弦の声は低く、静かで、それでいて部屋全体に滲み渡るような響きを持っていた。
「消滅した星座の数は現時点で三百七十二。範囲は第六区から第九区上空にかけて。しかし過去にも小規模な消滅は記録されている。今回は規模こそ大きいが、性質としては自然現象の延長と見るべきだろう」
沈黙が一瞬あって、それから部屋が揺れた。
「自然現象、とおっしゃるのですか」
声を上げたのは、蒼汰より三つ上の先輩地図師・瑠山(るやま)だった。地図師の中でも特に鋭い空読みの腕を持つ彼女が、珍しく感情を露わにして立ち上がっている。
「三百七十二の星座が一夜で消えることが、自然なのですか。老師」
「自然に起こりえないことなど、この世にはない」
天弦は静かに言い返した。
「問題は、それをどう記録し、どう管理するかだ。諸君には消滅した星座の最終記録を照合し、欠損図を作成することを命じる。しかし範囲は第六・七区に絞る。それ以上の調査は現時点では不要だ。余計な混乱を招くことは、ギルドの務めではない」
また沈黙が落ちた。今度はもっと重く、長い。
蒼汰は手の中の地図帳をそっと開いた。白紙のページに昨夜現れた一本の線が、朝の光の中でも確かに残っている。細く、迷いがちで、それでも消えていない。その線を指でなぞりながら、蒼汰は老師の横顔を見つめていた。
天弦は嘘をついていない、と思った。だが真実も語っていない。その隙間に何かある。
―― ― ―
会議が終わると、地図師たちは三々五々に散っていった。廊下はくぐもった声で満ちていた。不満と不安と、それを表立って言えない閉塞感が入り混じった空気。蒼汰は人の流れに逆らうように観測室の方へ足を向けた。
「蒼汰」
呼び止める声に振り向くと、零花が壁際に立っていた。会議の間、彼女はずっとそこにいたのだろうか。石壁に背を預け、眉をわずかに寄せた顔で、蒼汰を見ている。
「部屋の中、ずっとざわざわしてた」
零花の言い方は独特だ。感情を言葉にするとき、いつも少しずれた場所から近づいてくる。彼女が感じているのはおそらく、会議室に充満していた不安と反発の感情の残滓だ。他者の感情を追体験する力を持つ彼女にとって、あの空間はどれほど騒がしく感じられただろう。
「ざわざわしてたよ」と蒼汰は答えた。「俺の中も、今もまだそうだ」
零花はしばらく蒼汰の顔を見てから、「何かするつもり?」と聞いた。
「調査する」蒼汰は迷わずに言った。「老師の言う通りに第六・七区だけじゃなく、もっと広い範囲の消滅星座を記録した地図を作る。ギルドの正式な命令じゃないから、秘密でやるしかないけど」
「怒られる?」
「たぶん」
「それでも?」
蒼汰は一度だけ地図帳に目を落とした。白紙の中の一本の線。
「この線が何かを知りたい」
零花は何も言わなかった。ただ静かに頷いて、それから当然のように蒼汰の隣に並んだ。蒼汰はその小さな並走を受け取って、もう一度だけ廊下の奥を見た。天弦の姿はもうそこにない。
―― ― ―
観測室の記録棚は天井まで届く高さで、古い消滅記録が年代順に並んでいた。蒼汰は梯子を使いながら過去百年分の記録を引き出し、床に広げていった。零花はその傍らに座り、広げられた記録を丁寧に整理した。彼女の手つきは不思議なほど正確で、頁をめくるたびに何かを感じ取っているのかもしれなかった。
消滅の記録を遡るにつれ、蒼汰は奇妙な規則性に気づいた。
過去に起きた小規模消滅の位置を順に地図に写していくと、それは螺旋を描いていた。外側から少しずつ内側へと近づく、ゆるやかな螺旋。昨夜の大規模消滅は、その螺旋の中でも特別に大きな跳躍だった。
「これ、収束してる」
蒼汰は声が震えないよう意識しながら言った。「全部、中心に向かって収束してる。中心は——」
地図を指でなぞる。観測塔。夜図界の真ん中に聳え立つ、最も古く最も高い塔。
零花が蒼汰の手元を覗き込んで、「塔が何か食べてるみたいに見える」と言った。
その言い方が、心の中の何かに刺さった。食べている。星座を。記憶を。誰かの、生きた証を。
蒼汰は地図帳の白紙のページを開いた。今朝より少し、線が伸びていた。
手が、止まらなかった。自分でも気づかないうちに、蒼汰は消滅星座の位置を地図帳に写し始めていた。普通の地図師の技法ではない。記憶の欠片が地に落ちる前に形を捉えるための、見習いにはまだ習わせてもらえない筆致で。それでも手は動いた。まるで誰かに教わったことがあるかのように、ためらいなく。
どこかで学んだはずのないその技法を、蒼汰は確かに知っていた。
―― ― ―
日が傾き始めた頃、廊下で足音がした。
瑠山だった。彼女は開いたままの観測室の扉から入ってきて、床に広がった記録の群れと、蒼汰の地図帳を一瞥した。
「やっぱりね」と彼女は言った。怒ってはいない。どこか安堵したような声だった。「私もさっきまで同じことやってた。別の部屋で」
「見つかりましたか」蒼汰は問うた。
「螺旋」瑠山はすぐに答えた。「収束点は観測塔。あなたも?」
「同じです」
しばらく沈黙があって、零花が「他にも同じことしてる人いる?」と聞いた。
「若手は何人かね。でも声には出せない。老師が抑えてるから」瑠山は眉を下げた。「老師は間違いなく知ってる。知ってて、止めようとしてる。調査じゃなく、情報を」
その言葉が、部屋に静かに沈んだ。
蒼汰は地図帳を閉じた。消滅星座の地図は、まだ半分しか写せていない。だが今夜も夜空は減り続けるだろう。螺旋は締まり続けるだろう。白紙の中の線は、また少し伸びるかもしれない。
何かが終わろうとしている。あるいは何かが、始まろうとしている。
蒼汰にはまだわからなかった。ただ、もう立ち止まることはできないと、それだけははっきりとわかった。
夜が来れば、また空が削られる。
それまでに、地図を完成させなければならない。